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蹴裂伝説と国づくり


出版の動機

 

一万年ほどまえに、ながらくつづいた地球の氷河期のさいごのウルム氷期が終わった。ところがウルム氷期が終わると、日本列島の姿かたちがどんどん変わっていった。たとえば、ウルム氷期の日本列島には脊梁山脈をとりまいてひろい大陸棚の大草原があった。その証拠に、その大草原を目ざしてシベリア大陸から多数のマンモス、ゾウ、オオツノシカなどの大型哺乳動物がやってきた痕跡が各地にのこされている。しかしウルム氷期が終わって海水面が上昇すると、大陸棚は海中に沈んでしまい、大型哺乳動物もまた大草原をうしなって絶滅してしまった。とうぜん、それら大型哺乳動物を追ってシベリアからやってきた人間たちも絶滅する運命にあった。しかし人間たちは土を火で焼いて土器をつくり、そのなかに乏しい食物をいれて煮炊きをし、食物を保存する技術を発見して生きのびた。そのときかれらは、割れやすい土器が生命力をもつように土器の表面に「強い縄の霊(タマ)」を刻印した。縄文土器である(上田『呪術がつくった国日本』)。縄のタマを刻印したかれらは今日「縄文人」とよばれている。

いっぽう大陸棚が水没したあとの日本列島にはもはや平地はなくなってしまった。日本列島は、列島を形成する脊梁山脈がそのまま海に沈んだような「山島」になってしまったのである。

それだけではない、ここにもう一つ大きな問題が生じた。

というのは地質学者や歴史学者があまりいわないことであるが、ウルム氷期のころ地球は一般に乾燥していて雨がすくなかった。日本列島もいまのように、夏に太平洋からやってくる高温多湿な海洋気団やさらには台風といった熱帯性低気圧、冬にはシベリア大陸からやってくる寒気団などといったものがなかった。ために豪雨も豪雪もおきなかった。自然災害などもあまりおこらなかったのである(上田『日本人の心と建築の歴史』)。

しかしウルム氷期が終わると、日本列島に夏の暖気団や台風、冬の寒気団などがつぎつぎと襲来するようになり、それによって各地に頻々として豪雨・豪雪がもたらされた。風雨・降雪がひろく日本列島をおおうようになった。おかげで日本の国土は一変してしまった。

というのは「砂山列島」といわれるほど地質のもろい日本列島では、それら豪雨・豪雪によって各所で山崩れや崖くずれなどがひきおこされたからである。そうして崩落した土石や砂、泥などが土石流や泥流となって谷や盆地、海面などを埋めつくした。もうすこしくわしくいうと谷や盆地、海面などに何十何百という川と、それにそった自然堤防や洲島と、それをとりまく無数の湖沼や湿地帯などをつくりだし、国土を「乱流・乱床の氾濫原」にしてしまったのである。

その結果、わが国の史書の『古事記』がいう「国わかく浮きし脂のごとくしてクラゲなす漂える」といったフワフワの日本列島ができあがった。あるいは中国の史書の『魏志倭人伝』が記述する「倭の国は海中洲島のうえに絶在し、あるいは絶えあるいは連なり周旋五千余里ばかりなり」というかぼそい国が現出したのである。

つまりそのころの日本列島は脊梁山脈のほかには、その周囲をとりまく無数の川、自然堤防、洲島、湖沼、湿地帯が交錯・乱舞する世界となったである。しかもその形は、毎年のように変化していったのだった。

そういう変化をひきおこしたものは今日いうところの「災害」である。つまり「自然災害が日本の国土をすっかり変えてしまった」いわば「日本列島の脊梁山脈が溶けて流れて日本の国土ができあがった」といえるのだ。

しかし、そういう「クラゲなす漂えるさま」「海中洲島のうえに絶在する国」「無数の川、自然堤防、洲島、湖沼、湿地帯などが交錯・乱舞する世界」といった日本列島のおおくが、なぜ今日みるような盆地や平野、すなわち「沃野」になってしまったのだろう? それもすべて自然災害によるものだったのか?

ここに、その謎を解きあかすような一つの説話がある。民俗学でいう「蹴裂伝説」だ。一種の「国土改変説話」といっていい。

どういう国土改変説話か、というと「神・鬼・巨人・巨獣・巨魚・異人・貴人・仏・巫女などといったオドロオドロシイものが、その超能力によって湖沼や峡谷などを蹴り裂いて悪水をながし沃野をつくった」とするものだ。

しかもそれら国土改変説話は、日本列島の各地に無数にある。さらにそれらのおおくは、いまから千八百年ないし千五百年まえの古墳時代におきたもの、とされる(上田・他『日本人はどのように国土をつくったか』)。

すると、それらの国土改変をも「地震・火山などの自然災害によるもの」とみるにはあまりにも日本中に普遍的に存在しているし、またあまりにも特定の時代つまり古墳時代に集中しすぎている。まことに不思議なことである。

そこで「これらはいったい何を意味するのか?」と、わたしは三十年来、日本列島の各地を「蹴裂伝説」を追いながらかんがえつづけた。その結果、今日、歴史学や考古学で「縄文・弥生・古墳時代の文化とされる古代日本文化はいまも生きている」とかんがえるようになったのである。

というのも、いまなお大都市やその近郊にみる鎮守の森のおおくの「秘儀」(上田『庭と日本人』)、日本の辺境の村々にある無数の「古俗」(上田『鎮守の森の物語』)、沖縄の男たちが口ずさむ「巫女の祝歌」(上田『海辺の聖地』)、北海道のアイヌ社会に語りつがれる「動物伝説」(上田『人間の土地』)、アメリカ・インディアン・イロクォイ族にのこされる「氏族生活の規律」(上田・他訳『アメリカ先住民のすまい』)などが「古代日本文化」(上田『一万年の天皇』)とおおくの点で共通しているからだ。

そういうことを見たり、聞いたり、調べたり、あれこれ考えたりしているうちに、わたしは「古代日本文化はかならずしも書物のうえにあるのではなく、現実生活のなかに切れ切れに見えるものであり、それらを諸学の成果や想像力などでつないでいけば古代人の生き生きとした生活がよみがえってくるのではないか?」とおもうようになった。

そして蹴裂伝説のおおくもまた「この国の住人である縄文人、あるいは縄文の伝統をうけついだ日本人がおこなったものである」と確信するようになったのである。

『蹴裂伝説と国づくり』という本の出版をおもいたった動機である。


もくじ

 

はじめに―日本の湖はなぜなくなったか?

「平地の国」と「山地の国」/「国土のスリーサイズ」/「海のなかの洲島に絶在していた」/災害が日本の国土をつくった/和御霊と荒御霊/地中は「生活資源の宝庫」だった/ひょっとすると〈怪物〉がいたかも/「蹴裂伝説」をかんがえる

第一章    クマが上川盆地の岩を取りのぞいた――盆地は氾濫原だった! (北海道・旭川)

上川盆地に「平野」はなかった/アイヌはサケを獲った/ササが群生しアブが来襲する湿地帯/上川盆地に「湖」があったか?/「カムイコタンの魔神伝説」/「百鬼夜行」のカムイコタン/湖というより「沼沢」/上川盆地の客土は粘土か?砂か?/「ビショビショの氾濫原」/湖は出現したり消滅したりした

第二章 カニが小国の沢を拓いた――縄文人と弥生人の争い (山形・最上小国)

東北は「氷」の形/日本の地形は風水思想で説明できない/「富士山型」/「ウナギのセナカとスキマ型」/「ウナギのスキマ」の水が引いた/氷の国の「ヘビ・カニ合戦」/岩木山の「オオヒト伝説」/縄文人は山を熟知した/美奈志川の「水争い伝説」/「小国盆地」をたずねて/オオヤマツミの「開削伝説」/ヤマビトは縄文人だ!

第三章 ヤマトタケルが沼田の谷を削った――エミシ征伐でなく国土開発だった (群馬・沼田)

沼田の「湖水伝説」/ヤマトタケルは「蹴裂き」をおこなったか?/タケルは湖を見た!/タケルが各地で祭られる!/もう一つの蹴裂き伝説―オオニトリ/「地球戦争時代」の地質学はこれからだ!/群馬県になぜ前方後円墳がおおいか?/綾戸渓谷は岩だらけだった

第四章 カミサマが甲府盆地をうがった――「穴切り」と「蹴裂き」と「瀬立ち」 (山梨・甲府)

ヤマトタケルは甲府にきた!/盆地といってもヤワなものではない/信玄の霞堤/「水をもって水を制する」/川除衆→惣村→縄文人/甲府盆地の「蹴裂伝説」/盆地に湖はあった!/いつ、どこで、だれが、なんのために蹴裂いたか?/たびたび「湖は出現していた

第五章 ネズミが崖を咬んだ――ヒナ族とアマ族の闘争か? (長野・上田)

信濃は「過疎の国」か?/「謎の盆地」群/信濃の国は「マグマの塊」/拠点地域へいくのに苦労する/「難治の国」/シナは「階段地」をいうか?/シナは種族名である/シナザカル・コシ/アマザカル・ヒナ/狩猟民の性格が信濃人にうけつがれている?/大地が折り重なるようにうねっている/上田の「唐猫伝説」/「ヒナ族とアマ族と天皇族」/「蹴裂伝説」と天皇族の国づくり

第六章 竜の子が水を落した――先住民の「母子心中」か? (長野・松本)

「母竜」が体当たりする!湖の岩をこわした!/「蹴裂き」は各地でおこなわれた/松本盆地にみる「犀竜伝説」/縄文人はアマ族が協力した/諏訪大社はなぜ「山」と「木」をまつるか?/タケミナカタが出雲から農業をもってきた!/諏訪湖はなぜ蹴裂かれなかったか?

第七章 オオクニヌシが亀岡の山をさいた――イズモ族が「山の水稲作」をもたらした (京都・亀岡)

水害の町・亀岡/亀岡の水はどこにながれていたか?/古墳の位置が昔の「湖岸線」をしめす/オオクニヌシの「蹴裂伝説」がやってきた!/イズモ族が蹴裂き、天皇族が「古墳」をきずいた/樫舟の伝統をうけつぐ亀岡祭

第八章 アメニヒボコが津居山の瀬戸を切った――渡来民は鉄器をもちいた! (兵庫・出石)

但馬の宣伝をしよう/出石の「泥海」/円山川は川ではなく入江だ!/瀬戸の水門を開削して水をながした/瀬戸の切戸は「気比の浜」開削排水路だった!/アメノヒボコはなぜあちこちをまわったか?/そこに鉄があったから

第九章 ウナキヒメと力持ちが由布岳をけった――ヒメ・ヒコが国土をつくった! (大分・湯布院)

由布岳と湯布院/湯布院には雨の日にくるべきです」/瓢箪から駒がでるか?/ウナキヒメの「蹴裂伝説」/蹴裂権現から由布岳がのぞまれる/力持ちは蹴裂権現になった/「ウナキヒメという神さまはいません」/ウナキヒメは速津媛か?

第十章 タケイワタツが阿蘇の岩を蹴裂いた――自然の陥没か?人間の蹴裂きか? (熊本・阿蘇)

カルデラ盆地がなぜ乾燥化したか?/「火の国」の阿蘇/タケイワタツの「蹴裂き」/古墳の集中する里/阿蘇神社から泉が湧きでる/タケイワタツとは何者か?/タケイワタツは「茂賀の浦」にも/カメが切られて「島」になった/そうして蹴裂いたか?/蹴裂いたところはみな岩だった!

むすび―「蹴裂伝説」と国づくり

神功皇后の「蹴裂伝説」/火をつかって石を割る/火根源は太陽にあり/「山島」という風土/「自然災害の多発国」/自然災害を「神さま」にした/荒御霊の名残りをつたえる枕詞/なぜ「崩壊地名」や「冠水地名」がおおいか?/古代地名を膠着語から解読する/「モモソヒメが湖を瑞穂の国に変えた」/ヒミコはモモソヒメか?/日本の稲作というものはヤワなものではなかった/アマテラスが稲作をすすめた!/日本の国の誕生/四道将軍は「稲作のための国土開発」をおこなった/「国づくり」が日本の政治である/蹴裂伝説は「日本のミッシング・リングをつなぐ珠」/サムライたちは土地開発の先頭にたった/日本の国土は無惨に引き裂かれた/「方言はほとんど死に絶えた/「地方自治」にかえれ!


むすび

 

今日、日本の政治・経済・社会は閉塞感におおわれている。その外的要因の一つに国際社会の混迷ということがあるが、しかし「沖縄の基地問題対策」一つをとってみてもわかるように、ここのところの日本人が「自立精神を失った」という内的要因をも見逃せないのではないか?そうなったのも、明治政府がプロシアをモデルに「富国強兵」国家の実現をめざして「有司専制」という名の役人支配体制をつくり「人民をして拠らしむべし知らしむべからず」という政治を百四十年間もおこなってきた結果、人民はすべて役人の命にしたがわなければならなくなった。おかげで人民はすっかり自立精神を失ってしまった。かんがえてみると、何千何百年ものあいだこの国の僻地や難地をいとわず土地に根ざし、かつ、土地を改変して生きつづけてきた百姓、郷士、町衆たちはみな強固な自立精神の持主だった。であるのに「現代日本人がそれを失った」ということは、日本人が「そういった歴史を忘れた」あるいは「日本の哲学を失った」ということではないか?その責任の一端はこの国の学者たちにある。学者たちが「日本の歴史や哲学」を庶民にしめす仕事を怠ってきたからだ。

たしかに学者たちのおおくは明治政府がつくった「官吏養成大学」を出ざるをえなかった。とはいえ一人ずつをみると、おおかたが西洋の学に甘んじこの国の千年余の学問を無視してきた。かれらのおおくは「象牙の塔」という名の洋書のつまった図書館に閉じこもり、ひたすら欧米の情報摂取につとめてきた。その証拠に、この国の大学のカリキュラムをみると、江戸時代の学問というものがほとんど省りみられていないのである。

その結果「現実の日本社会を見ない」あるいは「知らない」といった学者たちが世にあふれている。日本の歴史や哲学を知るどころではない。

しかし、そういう停滞をやぶった学者たちもあらわれてきた。日本史学を例にとると、従来の『記紀』中心の史学でない「新しい日本歴史学」もつくられてきたのである。

その一人は、明治・大正・昭和に活躍した動物学者の南方熊楠である。南方はわかいころ紀州から東京にでて大学予備門にはいり、土器や動植物の標本採集に熱中して退学し、アメリカ、中南米、西インド諸島をまわって標本採集をつづけ、それがみとめられて大英博物館の東洋調査部員になり、カビやアミーバなどの粘菌類の研究で世界的に有名になった。

その南方によって紹介された西洋民俗学に触発されて、農商務省の役人だった柳田国男は、戦前、日本各地の農山村をあるき、民衆の歴史学ともいうべき「日本民俗学」をうちたてた。

南方自身もまた歴史・民俗文化財としての神社に注目し、神社を縮小・統合しようとする明治政府の「神社合祀令」に身を挺して反対して各地の中小神社をまもった。今日、ひと気のない山中にハッとするようなヤシロを見かければ、それは「雑学者」と蔑まれた南方のおかげといっていい。

おなじく民俗学者の伊波普猷は、それまで異国扱いされていた沖縄の歌謡『おもろさうし』を研究して古代日本の素朴な姿を人々のまえに浮かびあがらせ、言語学者の金田一京助は北方日本について『アイヌ叙事詩ユーカラ集』を出版して「アイヌ学」「エミシ学」の魁となった。

さらに第二次世界大戦後には東アジア史学者の江上波夫が『騎馬民族征服説』を提起し日本史学会をして「黒船到来」とばかりに震撼させた。いご鎖国的だった日本史学会も、日本だけではなく東アジアにも注目せざるをえなくなったのである。

そのほか推理作家の松本清張は『古代史疑』を書いて北九州の地から日本史の根幹を問い、女性史学者の高群逸枝は女性解放運動家の平塚雷鳥の「原始女性は太陽だった」という主張を『母系制の研究』として実証してみせた。

しかし圧巻は明治にエドワード・モースが発見した大森貝塚いらいの日本考古学の目覚ましい発展であろう。今日各地で発掘された無数の考古学的遺跡・遺物によって、日本人の歴史は一挙に一万三千年前までさかのぼった。しかもそれはたんに歴史の古さをしめしただけでなく、日本文化の本質にせまる数々の問題を提起したのである。

といったような「新しい日本歴史学」の展開をみると「今日において人々が日本の歴史や哲学を知るのも問題ない」とおもわれるかもしれない。

ところが、これらの学問の個々の発達のすばらしさにもかかわらず「それら全部を包括する総合の学」というものが、じつはまだ生まれていない。これらの学者はすごいが、しかし専門世界の枠というセクショナリズムがかれらの前に大きく立ちはだかってそれ以上の発展を扼している。ために全体として日本の歴史や哲学が確立されるまでにはいたっていないのである。

しかしかんがえてみると『大日本史』の編纂にとりくんだ徳川光圀や、国学をひらいた本居宣長などには『記紀』のほかにほとんど何もあたえられなかったのだ。すると、このような知的状況にあふれた現代は「新しい歴史学や哲学」を打ちたてる絶好のチャンスではないか? 若い学徒たちはこれらの諸学の発展を総合し、勇をもってこの状況を切りひらくべきだろう。

『蹴裂伝説と国づくり』もまた「蹴裂伝説」というテーマを足がかりに、諸学の総合によって「一万年の日本人の国土創造の歴史と哲学」の一端に取りくんだものである。

ただ、その意図はともかく「力およばずしておおくの破綻を露呈しているのではないか?」とおそれるが、しかし破綻はあっても、わたしの問題提起の意図をお汲みいただき、つづく第二第三の発展を期待したいのである。