侍とは何か?
侍(さむらい)とは、いったいなんだろうか?
サムライは、ほかにモノノフ、ツワモノなどともよばれる。それらの語源は、従者として貴族たちにつかえる「侍(さぶら)う者」から、武力をもって公権につかえる「武者(もののふ)」、合戦を業とする「兵(つわもの)」などとされる。
しかし、みな同じものをさしている。武士だ。
では武士とは何か?
ふつうそれは「平安時代後期にあらわれた弓馬の道を業とする者」とされる。
しかし「なぜ平安時代後期に弓馬の道を業とする者があらわれたのか?」となると、歴史学者のあいだでも意見がわかれる。
今日、武士は小説に、映画に、テレビに、マンガに数おおく登場する。そしてひろく日本人に愛されている。ところがその武士というものの出自が、じつはいまひとつはっきりしないのだ。
たとえば、古くからある武士の発生論は「荘園からうまれた」とするものである。奈良時代の公地公民の「国有地」から、奈良時代末から平安時代にかけては「荘園という私有地」がみとめられるようになった。その私有地では何事もじぶんで管理しなければならない。いちばん怖いのは、じぶんの土地を他人にとられることだ。そこで地方の名主(みょうしゅ)などといわれた有力農民たちは自己の荘園をまもるために武装した、とする「自衛農民説」である。
第二次大戦後もしばらくはその説が有力だった。しかし多方面にわたる歴史研究の結果、さらに土地を開発したが辺鄙な土地なので治安が悪く開発した農民や領主たちが自衛した、という「開発領主説」、あるいはたんなる自衛農民や開発領主でなくまわりに小作等をしたがえた郡司などの地方役人だった、とする「在地領主説」などがあらわれるようになった。
ほかに武芸をもって支配階級につかえる職能人だった、とする「職能人説」もとなえられている。たとえば、律令制下の軍団は徴発された農民で弱かったから郡司の子弟などで武芸に秀でた者を「健児(こんでい)」にした、あるいは家畜などの殺生にたずさわっていた「屠児(とじ)」が転職した、さらには社会不安のなかから貴族たちがやとった「用心棒」や「職業的殺し屋」が転化した、などの諸説があるのだ。
武士の発生をめぐる論壇はにぎやかなのである。
ただしそれらは、みな歴史学者による歴史をめぐっての論争だ。それにたいして、もうちょっとちがった視点からの考察もかんがえられるのではないか?
というのは、武芸をもった戦士あるいは戦士集団というものは世界中にたくさんあるが、そのなかにあって日本の武士は、ほかにはみられないきわめて特異な生態をたくさんもっているからだ。
そこで武士の発生を歴史研究にとどまらず、武士の特異な生態からかんがえてみるのも一つの方法だろう、とおもい、以下に論ずることとした。
「農民・役人・職能人起源説」への疑問
そこで、武士の生態研究ということである。
その武士の生態でまずおもいうかぶのは刀だ。
といっても刀がなにもめずらしいわけではない。世界の戦士もたいてい武器を携行している。そのおおくは剣である。
ところが、日本の武士が他の国の戦士とかわっている点は、他の国の戦士がみな剣を一本だけもっているのに日本の武士は刀を大小二本もさしていることだ。いったいなんのために刀を二本も腰にささなければならないのか?
まず大きいほうの刀は敵と戦うためである。それは世界中の戦士と共通している。そして小さいほうの刀は二の太刀ということもあるが、いざというときに戦場で自決する、つまり死ぬためにあるのではないか?そういうケースがおおくみられるからだ。とすると、日本の武士は敵と戦うだけでなく自殺するための刀までもっていた、ということになる。
その自殺とはおおく切腹である。
慶応四年(1868)正月のこと、鳥羽・伏見の戦いで幕府が敗れたあと、堺を警備していた土佐藩のサムライと市中で乱暴をはたらいたフランス水兵とのあいだに小競合いがおき、多数の死者がでた。フランス公使は新政府にたいし、賠償金のほかに殺害に関与した20名の武士の処刑を要求したが、新政府は幕府に肩入れしているフランスに恐れをなし、土佐藩に20名の処刑を命じた。土佐藩では誰が殺害者かわからず、藩士のなかからくじ引きで20名を決めて切腹させることにした。その切腹現場にたちあったフランスの役人はあまりにも凄惨な現場にいたたまれなくなり、11人切腹したあとで逃げだしてしまい、結局、9名は助かった。この堺事件が世界に報道され、ハラキリは一躍、世界に有名になった。
このばあい死ぬことが必要だった、としても、武士たちはなぜ切腹という世界に類例のない残酷な方法をとらなければならなかったのか?
それは、切腹が「名誉ある自殺」だからである。つまり、じぶんの腹を切って体内の血が赤いことを、心は赤誠であり身は潔白であることを人々にしめすためだ。心身が赤誠であり潔白であるにもかかわらず、諸般の事情によって自決しなければならなくなったとき、武士は腹を切る。そして武門の誉れをまもる。主君の仇である吉良上野介を討ちとったあと、赤穂浪士たちがそろって切腹したのもそのためだった。
そこで武士は、いっぱんに刀のほかに小刀としての脇差をもつ。
奈良時代までの刀剣は刀身に反りのない直刀だった。諸刃の剣または片刃の大刀(だいとう)である。それらは斬ることもできたが、ほんらいは突くものだったろう。
それが平安時代にはいると、大刀も湾刀、つまり柄や刀身が反りをもつようになる。それも反った刃を下にむけて腰につるす太刀(たち)だ。それは突くものではなく斬るものだった。
さらに時代がさがると腰につるす太刀ではなく、刃を上にむけて帯にさす打刀(うちがたな)というものがあらわれた。それもはじめは一尺未満の小刀だったが、のち二尺以上の刀になり、これに脇差をそえて二本ざしの武士のスタイルが完成した。
いっぽう切腹のほうはこの刀の出現と期を一にするように、平安時代末ごろからあらわれている。そしてみのがせないのは、武士の登場もほぼそれらと時代をおなじくすることだ。
とすると、切腹というのは武士にとって欠くことのできない要件ではないか?いいかえると、武士が極限状況におちいったとき、その名誉をまもるためにおこなわれる切腹のなかに、武士の本質がみられるのではないか?とおもわれるのだ。
そういうふうにみてくると、武士の起源としての「自衛農民説」や「開発領主説」などはとりあげにくくなる。農民あるいは開発農民にとってももちろん名誉は大切だろうが、それより農業生産を拡大することのほうがより大事なことではなかったか、とおもわれるからだ。
さらに「在地領主」つまり役人や半役人たちもどうか?かれらも名誉をまもるより、じぶんたちの権力や財力を維持することのほうをのぞんだのではないか?いままで権力や財力を維持してきた人たちが、名誉のために死んでしまったのでは元も子もないだろう。
どうように武芸をもってたつ「職能人」たちも、名誉のためとはいえ命をおとしたのでは糊口をしのぐ職業もなりたつまい。
じっさい切腹の作法は、まず腹を真一文字に横に切り、つづいて上から下に切りおろして十文字型にし、真紅の腸を人々にしめして最後に刃でじぶんの喉を突く、という。こういうはげしい、かつ、残酷な自決方法は、よほどつよい精神力をもち、また日ごろから刀剣にしたしんでいた者でなければできなかっただろう。「農民や役人、あるいは職能人といった人たちには無理ではなかったか?」とおもわれるのである。
エミシの髻とサムライの丁髷
すると、いったいだれがそんな行動をとるのか?
かんがえてみると、そういうはげしい行動をとる可能性をもつ人々に、たとえば古い時代の狩猟民があったのではないか?
旧石器時代あるいは縄文時代の狩猟民は、しばしばマンモス、ゾウ、クマ、クジラなどといった大動物を狩猟した。かれらがそういう大動物と格闘するような危険な行為をやるのは、たんに食料獲得のためだけではなかった。これら大動物を「神さま」にみたてて、それらを獲り、それらの肉をみんなで食べ、そうして「神さまの魂、つまり強力なエネルギーを身につけよう」とねがったからだ(拙著『呪術がつくった国 日本』)。ついこのあいだまで北海道にみられたアイヌのクマ祭りなどに、そういった遺風をみることができる。
だから人々は命がけで狩猟をおこなったことだろう。そしてそこで命をうしなってもそれは名誉なことだったにちがいない。そういう伝統が、のちの狩猟民のなかにも息づいていたのではなかったか?
では古代の日本において。どういう狩猟民がいたというのだろう?
古代日本の歴史書である『日本書紀』のなかに、景行大王のときというから四世紀ごろのことだろう、いまの東北にすむ蝦夷のことがしるされている。
それによると、エミシは「冬は穴にねて、夏は木にすみ、毛皮をきて、血をのむ。山をのぼるときは鳥のようにはやく、野をはしるときは獣のようにすばしこい。つねに矢を髪のなかにかくし、刀を衣の下にひそませ、仲間とともにわれわれの国境をおかし、稔りのときに作物をかすめとりにくる」という。
これはまったく狩猟民の生態といっていいではないか?
ここで注目されるのは、おなじ『書記』のなかで、エミシの社会を視察した武内宿禰(すくね)という古代の大臣が大和にかえって「かれらは髻(もとどり)をゆっている」と驚きをもった報告していることだ。
これは重大な指摘である。というのは「髪をうしろにたばねてモトドリをつくる」というのは、いっぱんに狩猟民の誇りたかい髪形とされるからだ。ながい辮髪をしていた中国清朝の創始者ヌルハチも女真族出身の狩猟民だったし、髪を一房だけのこしてあとはツルツルにそりあげた砂漠のアメリカ・インディアンも狩猟民だった。
では「なぜかれらは頭をそってモトドリをこれみよがしにしめすのか?」というと、それは敵にたいして「〈この首をとれるものならとってみろ〉という狩猟民の戦士たちの挑戦であり心意気だった」という(ヘンリ・ステュアート『北アメリカ大陸先住民族の謎』)。モトドリがあると、とった首をぶらさげやすいのだ。「そうまでしているのにこの首がとれないのか?」と相手を挑発する髪型だ、というわけである。
ところがそうだ、とすると、そういう例は外国だけではない。日本の武士たちがゆっていた丁髷(ちょんまげ)もまた頭をツルツルの月代(さかやき)にしてモトドリを強調していたではないか?なんのことはない。「日本の武士も狩猟民の伝統をひいていたのではないか?」とおもわれてくる。
では武士のチョンマゲはいつごろからおこったのだろうか?
それは鎌倉時代とされる。しかも「戦争にいくときはサカヤキをそるが、かえってくるとまた髪をのばす」などという。なるほどそれではたしかに「戦場で相手を挑発する行為」とみなされてもしかたがないだろう。
そういった日本の武士のチョンマゲは江戸時代までつづいた。そうしてこの国の戦士のシンボルになっていったのである。
サムライの起源はエミシか?
では、そういう武士のチョンマゲにみる狩猟民の伝統というものは、いったいどこからきたのだろうか?
かんがえられるのは八世紀のおわりに、大和の朝廷軍と東北のエミシとが、北上川中流域の岩手県胆沢盆地の旧水沢市、ここ数年来の町村合併でできた奥州市において全面衝突したことだ。
この戦争での朝廷側の軍隊は、主として東日本を中心に動員された農民兵だった。対するエミシ側は胆沢盆地にすんでいた狩猟民である。いわば農民兵対狩猟民の対決だった。そして農民兵側は圧倒的人員と物量をほこったにもかかわらず、初期から大敗をくりかえした。
たまりかねた大和朝廷は、さいごに坂上田村麻呂を征夷大将軍とし、十年の歳月をかけ、のべ十五万の大軍を動員して、やっと二千か三千ほどのエミシを平定した。この十五万人という数字は、とうじの日本の壮年男子人口の二十パーセントほどにもあたる。すると、これは数にものをいわせた勝利というほかない。
そうなったのもこの戦争は、それまで朝鮮半島などでおこなわれていた農民兵主体の戦争などとはまったくちがったからだ。
「水陸万頃(ばんけい)」といわれた北上川中流域は、湿地帯と陸地とが斑(まだら)状にどこまでもつづく「水郷地帯」である。そういうところで狩猟民のエミシがしかけてきたのはゲリラ戦だった。エミシたちは州島の森蔭からつぎつぎと矢を発射し、おもいがけない方向から疾風のごとく馬にのってあらわれ、農民兵を川中に追いつめては大量の人間をおぼれさせた。ために農民兵たちはエミシを「当千の兵」とよんでおそれおののいた。「一騎当千」という言葉はこのエミシ戦争からうまれた、とおもわれる。
たしかに農民対狩猟民の戦争となると、狩猟民のほうが強いのはわかる。
しかし、かれら農民兵の主体となった東国の開拓農民たちもそんなに弱かったわけではない。というのも平安時代にはいると、かれらの子孫が関東武士として全国に勇名をはせるからだ。その関東武士の祖先がそんなに意気地がなかったとはおもわれないのである。
また地の利や人の和の違いもあっただろうが、見逃せないのは両者の戦闘における刀剣の差異だ。
というのは、大和朝廷側は矛や盾のほかに、重い剣や装飾過多な大刀などをもっていた。しかもそれらは斬るといっても、両手の力で叩き切るものだった。たしかに盾などで武装した歩兵軍団の組織的な戦闘にはそれらは有効だったろう。
ところがゲリラ的な騎馬戦をしかけてきたエミシがもっていたものは、今日、北海道や東北地方に七世紀以降のものとして数多く出土する柄の先が早蕨型になった蕨手(わらびで)刀だったろう。それは柄と刀身が「くの字」に折れまがっていて腕の回転力をきかせて相手を引き切るものだ。エミシはその蕨手刀を片手で振りまわして、馬上からなで切るようにして密集のあいだを駆けぬけていった、とおもわれる。大和朝廷の軍勢はさぞ驚いたことだろう。たしかにこのようなスピードのある騎馬戦では、重い矛や直刀は「軽やかなブーメラン型の湾刀」にはかなうまい。結局、水郷と騎馬と湾刀のまえに朝廷軍が大敗北をこうむった、といえる。
そこでエミシ戦争いご、それまでの大和朝廷の軍編成や軍装がおおきくかわったことが推測される。たとえば刀剣についていえば、日本の山野河海の変化ある地形での騎馬戦にそなえて、エミシの「腰反り」といわれるブーメラン型の蕨手刀をまねて、さらに柄に毛抜形の透かしをいれた湾刀の毛抜型太刀が登場した。
また、エミシ戦争の古戦場のひとつでもあった一関市の舞川の舞草地区からは、現在、この蕨手刀や毛抜太刀から発展したとおもわれる湾刀の舞草(もくさ)刀が出土している。その反りは柔らかい心鉄を硬い鋼でつつんで叩き、焼きあげて自然につくられたものといわれる(中津文彦『秘刀』)。今日、世界に有名な軽やかで鋭い日本刀の祖形とされている。
この日本刀の登場とともに、しだいに武士というものも形づくられていったのではないか?
白、黒、赤、青の旗指物を風になびかせ、背に弓矢をおい、腰に日本刀をさし、金の兜(かぶと)をかぶり、白衣・直垂のうえに緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)を身につけ、馬の蹄鉄音とヨロイカブトの接触音をかろやかに鳴りひびかせながら、山野河海を鳥のごとく疾駆する日本武士のスタイルというものがしだいに完成していったのである。
しかしかんがえてみると、それはまったくエミシの姿ではなかったか?
毎年六月になると、盛岡市では「チャグチャグ馬ッコ」といわれる江戸時代からつたわる「馬のパレード」がおこなわれる。金、銀、朱、緑、青などの派手な色のついた装束と多数の鈴をつけた百頭あまりの農家の馬が、郊外の鬼越蒼前神社から市街の盛岡八幡宮までの15キロメートルの道をねりあるく民俗行事だ。
そのチャグチャグと鳴る鈴の音をきき、初夏の風にひるがえるカラフルな衣裳をみていると、かつてのエミシの姿をおもいおこさせる。
とどうじにそれは戦場におもむく日本武士の騎馬武者の雄姿でもあったろう。つまり馬にのったエミシの姿と、日本の騎馬武者の雄姿とがだぶってくるのだ。
というふうにみてくると、さきのチョンマゲもまた、エミシのモトドリをまねてうまれてきたのではなかったか?つまり馬も旗指物も、弓矢も刀も、鎧も兜も、そしてチョンマゲでさえも、さらには東北が起源とされる切腹(千葉徳寿命『日本人はなぜ切腹するのか』)までもエミシ起源ではなかったか?とおもわれるのだ。
このように武士の生態というものを観察しながらその成立をかんがえると、エミシというものが大きくうかびあがってくる。武士の「エミシ起源説」である。
じっさい、エミシのすむ東北と国境を接していたのは関東平野だ。おかげで関東平野は八世紀いらいエミシ戦争の兵站基地となり、人も物資もおおくここから北上川にはこばれた。ために、陰に陽にエミシの影響をうけたことだろう。
その関東平野は、のち日本の武士の揺籃の地となった。さきの騎乗を基本とする日本武士のスタイルも、じつは関東武士の典型的な姿といっていいのだ。
関東武士は、またその潔ぎよい態度を賞賛されたが、かれらはエミシからたんにスタイルをまなんだだけでなく、狩猟民精神をもまなんだのではなかったか?そうしてしだいに名誉を重んずる日本の武士が形づくられていった、とおもわれるのである。
七百年の治
ともあれ、こうして平安末期にうまれた武士は、やがて鎌倉時代にいたって、とうとう幕府という武士の専制体制をつくってこの国を支配した。
ただし幕府のリーダーの名は、源・北条・足利・徳川などとつぎつぎにかわった。だが武士という階級による支配体制は、鎌倉時代から江戸時代までのおよそ七百年間もつづいたのである。
たしかに、戦士が武力によって既存権力をたおし、そのあと政権をにぎった例は世界中におおい。しかし戦士階級が戦士階級のままで七百年間も国土と人民を支配した、というケースは世界にほとんど例がない。
というのも、いっぱんに権力をにぎった戦士たちは王や王族になりあがり、あるいは貴族階級に転化したりして戦士階級から離脱してしまうからだ。城壁や宮殿をかまえ、制度を整備し、官僚をやしない、財をたくわえ、そして文化を享受し、ときに酒池肉林の遊びにふける。しかしそういった栄耀栄華が、やがて国土や国家を疲弊させ、人民の不満をよび、また新たな戦士たちの打倒の対象とされてその座をうばわれていく。
これにたいし日本の武士は少々ちがう。鎌倉幕府いらい、途中、戦国時代という動乱をはさんだとはいえ、一貫して「長期武士政権」を維持してきた。そしてこの国におよそ「七百年の治」をもたらした。これは世界に特筆すべき「戦士政権」ではないか?
ではなぜそういう長期政権が維持できたのか?
さきに武士の切腹という自決行為を例にあげて、日本の武士にはおおく「名誉をまもる」というつよい意識がはたらいていることをのべた。
その名誉の対極にあるものは致富である。蓄財といってもいい。
この蓄財を日本の武士は、内実はともかく表面上は蛇蝎のごとく忌み嫌った。長生すなわち長生きとともに「財・生」は武士のこだわってはならないものとされたのである。つまり「名誉をもとめ、財・生にこだわらない」というのが武士の生き方であり、その本質だったのだ。
その結果、日本歴史には、貴族や僧侶たちが蓄財にはげみ長生をねがったケースは多々あるが、武士が蓄財・長生にこだわった、という例をあまりきかないのである。
もっとも「近世の将軍や大名たちが大奥や奥書院などでおおくの御殿女中などにかこまれて、日々、安逸の生活をおくったではないか?」といわれるかもしれない。が、かれらが大奥や奥書院などで安逸にすごしたのは、じつは幕府あるいは藩が将軍や大名を神聖化または象徴化の対象としたためであり、あるいは即物的には「世継ぎの生産のための隔離であった」とさえいえる。
そうすることは、また現実政治からの隔離をも意味した。つまり将軍や大名たちを大奥や奥書院に押しこめることによって、幕府内あるいは藩内の無用な勢力争いをさけ、幕府や藩の安定性と永続性とを保とうとしたのである。
とすると隔離されることもかれらの仕事であり、かつ、義務であった、といえるではないか。富の自由な享楽というにはほどとおい。
そうして政治の実権はおおく老中や家老がとりしきった。そのかれらは、おおむね清貧だった。
いっぽう社会の致富・蓄財は、中世ではさきにのべたように大荘園領主である貴族や僧侶、有力農民・百姓たちがおこなったが、近世では商人や地方大地主などがすすめた。
そして武士はなんどもいうように蓄財とは無縁とかんがえられた。だから社会の不満が、直接、武士階級にむけられることはすくなく、したがって武士政権が長続きした、といえる。
七百年の治をえた理由の一つといっていい。
サムライは農業開発や殖産振興で人民をおさめた
といっても、それが武士政権の七百年の治の理由のすべてではない。
武士政権というと、外国人はすぐに軍事政権とおもい「日本は七百年間も軍事政権がつづいた軍事国家だ」「軍国主義日本のルーツがそこにある」などと早合点してしまいがちだが、サムライたちは軍事力のみで人民を圧伏したのではなかった。むしろ軍事力以外の方法で人民をみちびいていった。そこに「七百年の治の秘密があった」といっていい。
では、その軍事力の行使以外の治世の方法とはなにか?
その答えは、時代によって内容がことなるのでいちがいにはいえない。そこで時代ごとにみていくことにしよう。
まず、最初の武士政権である鎌倉幕府だが、そこにおける治世の方法は幕府のリーダーである執権たちの日々の行動をみるとわかる。というのは、執権たちはあけてもくれても鎌倉で裁判ばかりしていたからだ。それもほとんどが各地の武士たちの土地争いである。
じつはそれまで各地の武士の土地争いはすぐに戦争に発展した。そこで戦争をなくすために裁判という方法をとったのである。そして世の中を平和におさめた。
その典型的人物は北条泰時(1183~1242)だろう。
かれは「御成敗式目」といういわば武士の憲法とでもいうべきものをつくり、それにしたがって裁判にはげんだ。その御成敗式目をつらぬく論理は、古代天皇の呪術性でも律令国家の権威主義でもなく、土地をたがやすふつうの日本人の良識と正義感だった。それを「道理」という。
あるとき鎌倉の執権の館で土地争いをめぐって二人の男が対決したが、いっぽうの男が道理をかざして話をすすめると、もういっぽうの男は「ほんにそのとおりだ」といって負けてしまった。それをきいた泰時は、涙をながして負けた男をほめたたえた、という。
そういう幕府だったからこそ、元寇という国難のときにも武士たちは幕府を中心に一致結束してことにあたった。もし元寇がほかの時代におきていたら、日本はどうなっていたかわからないだろう。
鎌倉武士は、いわば「裁判官」だった、といえる。
しかし天皇の世継ぎ問題がこじれて「そういう幕府はけしからん。元の天皇親裁にもどせ」と、ときの天皇の後醍醐は北朝にたいする南朝をつくって、野心家の武士たちといっしょに鎌倉政権をひっくりかえしてしまった。
つぎの足利幕府の将軍たちは、ひきつづくこの南北朝問題に頭をいためた。
「天に二つの日あらず」とまでいわれた天皇が南北朝として二人存在するようになると、世の中は統制のとれないものになっていく。天皇から将軍の印璽をうけた足利幕府の権威も地におち、そこでの裁判に人々はしたがわなくなった。おおくの村・国・荘園・寺・武士団などがいずれかいっぽうの天皇をかついで、隣村や隣国などと実力で土地争いをくりひろげるようになった。
そういうアナーキーな動きは、南北朝が合体したあともとどまらない。世はしだいに戦国時代に突入していった。
しかたなく歴代の将軍たちは、書画骨董、能・茶・庭・建築などといった文化の世界に没入し、北山時代・東山時代などといわれる日本文化の興隆時代を現出した。つまり政治世界で人々にみはなされた室町武士たちは、いわば「文化プロデューサー」として世の中に貢献したのである。
しかし文化だけでは荒れた世の中はおさまらない。各地の土地争いをなんとかしなくてはならない。
そこで心ある領主・守護大名たちは土地争いに精をだすだけでなく、領内の農業開発や殖産振興にはげんだ。とりわけ領内の人民がくるしんでいた水害をふせぎ、かつ、新田開発にうちこんだことが大きい。そうして成功した守護大名たちは強い力をたくわえ、領域の内外に睨みをきかしていったのである。
その典型として武田信玄(1521~1573)があげられよう。
信玄はその治世三十三年のうちに、甲斐の国からはじまって信濃・駿河・西上野・飛騨・東美濃そして遠江・三河の一部にまでおよぶ一大版図をつくりあげたが、そのかれをささえた経済力と軍事力は、俗に「信玄堤」といわれる治水政策と、そのうえにたった新田開発などがもたらしたものだった。
そういう例はひとり信玄にかぎらなかった。国土開発は、とうじのすぐれた戦国武将たちの大きな課題となっていった。つまり戦国武士たちは「国土開発者」だった、といえるのである。
そういうなかから織田信長や豊臣秀吉などといったすぐれた国土経営者が登場し、かれらはとうとう天下をにぎってしまった。
女子供をまもること
では、近世武士はどうだろうか?
つづいて天下を手中におさめた徳川家康が直面したものは、それまでの武士政権とちがい、ポルトガルやスペインをはじめとするヨーロッパ列強の国々との外国貿易、さらにはそれら列強による植民地支配の恐怖という現実だった。
そのうえでさらに三百の藩という武力をもった封建国家が外国貿易で富強になり、あるいは外国勢力と結託すれば幕府はひとたまりもない。
ために家康は、外国貿易はもちろん、外国との人的・文化的交流をふくむいっさいの交流を禁じる鎖国を断行した。こうして商業活動を国内だけに制限してしまった。
かわりに重農主義的政策をおしすすめた。
しかし四、五十年もたつと、国土の新田開発は限界にたっしてしまい、それ以上の開発は災害をうみだすだけになった。その結果、日本の国の経済発展は阻害され、社会の貧困化と矛盾の激化がすすんでいった。
江戸武士たちの仕事は、そういった社会の不満が暴発しないように社会全体を管理することだった。したがって江戸武士はみな「役人」だった、といえる。
といってもその管理政策というものも、つづめていえば「勤倹節約」の一語につきた。つまり貧困の平等化と永久化である。
そうやって二百年がすぎた。社会の矛盾はますます拡大し、飢饉のたびに各地で投機や汚職がおき、窮民は世にあふれていった。
そこに一人の武士・大塩平八郎(1793~1837)が登場する。陽明学者であり、かつ、大坂町奉行所の与力というから、今日でいえば大阪府の局長にもあたる高級役人をつとめたサムライだった。
かれは大飢饉のうえに、商人の売りおしみと投機で餓死者が増大する大坂の現実をみるにしのびず、たびたび貧民救済を当局に具申した。しかし商人たちと結託する町奉行にいれられず、とうとう農民百姓をあつめて世直しの決起をおこなった。そして敗れて自刃したのである。
この「大塩の乱」で大坂の町の五分の一が焼けたが、人々からは不満の声はでなかった。
それどころか、大塩の名はおおくの人々の胸にふかく焼きつき、民衆から聖職者のごとくあがめられ、各地に乱や騒動があいついだ。大塩は「聖職者戦士」になったのである。
それにしても大塩をはじめとする心あるサムライたちが世直しのために立ちあがったことはわかるが、それと「武士の名誉」とはいったいどういう関係にあるのだろうか?
それをしるために、いまいちどエミシにたちかえってみよう。
さきにのべたように、エミシは当初、大和朝廷軍を大敗北させたが、のち坂上田村麻呂のひきいる大軍に攻められ、家も田畑も焼かれ、部族滅亡の危機に瀕し、とうとうエミシのリーダーの大墓公阿テ流(たものきみあてるい)と盤具公母礼等(ばぐのきみもれと)は、生きのこった五百ばかりの戦士と数千の女子供の助命とひきかえに、みずからすすんで縛についた。
そこで田村麻呂は、リーダーのアテルイらをつれて京にかえり戦勝報告をしたが、都の貴族たちは田村麻呂を賞したものの、古代戦争では降伏した敵将を遇する礼があり、かつ、田村麻呂がしきりに助命を乞うたにもかかわらず、延暦二十(西暦801)年七月、アテルイらを河内の国の杜山(もりやま)で斬刑に処した。
しかしそれは、アテルイらのかねての覚悟だったろう。かれらエミシの武人たちは同族の女子供たちをまもるために戦ったのであり、女子供たちをまもるために死ぬことは武人の誉れだったからである。
そのアテルイらの潔さは、日本の戦士たちに強烈な印象をあたえた。
いご、日本の戦士たちのあいだに、アテルイらにならって、女子供・農民百姓・さらには国のために命をささげること、つまり「滅私奉公」することを名誉とする生き方がうまれていったのではないか、とわたしはかんがえている。
名誉に生きる日本のサムライの発生をここにみるのである。
西郷生まれる
西郷隆盛は、文政十年(西暦1827)12月7日に出生した。いまをさる180年前のことである。
では、西郷の生まれた文政十年とは、いったいどういう時代だったのか?
まずその二年前に、たびたびの外国船の領土侵犯に頭をいためた徳川幕府が、日本近海の外国船をみつけしだい銃砲を発射し上陸したものはみな捕らえるか殺すよう命じる「異国船打払令」をうちだしている。いわば日本は「外国艦船をすべて敵とみなす」という准戦時下体制にはいった、といってよい。
また西郷のうまれた年には、経済学者の佐藤信淵(のぶひろ・1769~1850)が、徳川幕府の米作一辺倒のひくい生産水準と寄生的な商業資本の跳梁を批判し、かわって百穀・畜産・製糸・金工・薬方(やくほう)などの諸産業の開発と、それによる富国救民、さらには将来の国家戦略をといた『経済要録』を出版している。
にもかかわらずそれから五年後には「享保(きょうほ)の飢饉(ききん)」(1732)、「天明の飢饉」(1781~1789)につぐ江戸三大飢饉の一つである「天保(てんぽう」の飢饉」(1833~1837)が発生している。御用商人たちは米価の釣上げに狂奔し、ために各地に一揆がおこっている。十年後にはさきの「大塩の乱」がおきている。
外交・内政ともに、日本は重大な曲がり角にたった時代といっていい。
そういう時代に西郷はうまれた。
うまれた土地は薩摩である。それは現在の鹿児島県の西半分をさす。ただし、これからたびたびでてくる薩摩藩といったばあいには、この薩摩のほかに鹿児島県の東半分の大隈(おおすみ)と今日では宮崎県となっている日向(ひゅうが)の一部をふくんでいる。
父は西郷九郎、のち吉兵衛といった。
そもそも西郷家は、後三條天皇の延久四年(1072)に肥後の国、つまり現在の熊本県菊池郡の領主となった菊池家の末裔である。菊池家は肥後の名族であり、南北朝時代には第十五代の菊池武光という豪傑があらわれて南朝方にくわわり大いに活躍している。
その名族の末裔の一人に西郷九兵衛という人物がいて、元禄年間に薩摩にやってきて島津氏につかえた、それが薩摩の西郷家の始まりだ、という。
といっても、西郷九兵衛がなぜ肥後の国をでて鹿児島にきたのかは不明である。
また菊池一族であるのに、なぜ西郷姓を名のったのかも不明だが、現在、熊本県菊池郡加茂川村字西郷に西郷若宮神社があることから、このあたりの豪族ではなかったか、とおもわれる。あるいは肥前の国高木郡西郷村(現長崎県南高来郡西郷村)と関係するともいわれている。
ようするに西郷家は、肥後あるいは肥前にわたって菊池一族が支配したなかの土豪や国人などとよばれた地方豪族のひとつだっただろう。
いっぽう、西郷隆盛の母は満佐(まさ)といった。豪快な気風をもった薩摩藩士の篠原権兵衛の娘で、その弟の国幹(くにもと)はやはり維新で活躍し、西郷とともに城山で死んでいる。
この椎原家の出自についてはよくわからない。
もっとも西郷家をさかのぼれば、この椎原家にかぎらず姻族として薩摩のおおくの国人の血が西郷家の血統にはいってきたにちがいない。そういう意味では、西郷家は肥前・肥後つまり「火の国」の出身ではあるが、歴代の男たちの身体にはおおく薩摩の血がはいったことだろう、とおもわれるのである。
さまざまな情報をあつめて総合的に判断する
さて西郷の父の吉兵衛は、薩摩藩の小姓組の一人で勘定方小頭(こがしら)だった。今日でいえば鹿児島県の財政課の一係長といったところか。家格はひくく、また子供が四男三女とおおかったので、家計はたいへん苦しかったようである。
そういうまずしい家庭の長男にうまれた西郷は、幼名を小吉といい、のち吉之介、吉兵衛、吉之助、隆永、隆盛などと称し、また南洲と号したが、生涯、吉之助というのがいちばんよくとおったようである。
その西郷吉之助にかんする評論の本は、今日、一千冊をこえる、といわれる。これはわが国の人物評伝にかんする出版件数としては最大だろう。聖徳太子や空海、信長、千利休などもとうてい西郷にはおよぶまい。
それは一口に西郷の人間的魅力をしめすもの、といっていいが、しかし、五百年も千年もまえの人物と百年まえの人物とでは資料の数が問題にならないほどちがう、ということもある。
たしかに、資料の数は圧倒的にちがう。
だがよくしらべてみると、そのおおくある西郷の資料というものはほとんど時期がかぎられている。たとえばそれらのどの評伝をみてもわかることだが、西郷についていろいろかたられている中身は、西郷の二十八歳以降のこと、つまり藩主の島津斉彬(なりあきら)にしたしくつかえてから以後のことである。そこには西郷の手紙や詩などをふくめておおくの資料があるからだ。
ところがそれ以前のこととなるとほとんど資料がない。したがって西郷の幼少時代のことは皆目といっていいほどわからないのである。
しかし一人の人物を論じるとき、その出生からはじまって、幼少時代のことを無視するわけにはいかない。「三つ子の魂百まで」というが、わたしの経験でも、一人の人物を知りたいときには幼少時代をみると大体わかるようにおもう。
そこで以下に、わたしの直観、すなわち、ひろい視野からのさまざまな情報をあつめて総合的に判断する、という方法をとりながら西郷の幼少時代をみていきたい、とおもう。
西郷家にはポリネシア人の血がながれていたか?
ところで、わたしたちは「西郷さんを知っていますか?」ときかれたらなんとこたえるだろうか?たぶん、日本人ならだれでも「知っている」とこたえだろう。
というのも、中学校で「明治維新をやった人」とおしえられているからだ。さらに「西南戦争をおこして鹿児島の城山で死んだ」ということも、たいていの人は知っている。
ところが西郷にかんする情報は、それら学校でならった知識だけではない。「西郷さん?」ときかれると、日本人ならみな東京の上野公園にある銅像をおもいだすからだ。例の「犬をつれた西郷さん」である。
その「犬をつれた西郷さん」の銅像をみる。
すると、その容貌と体躯に誰もがおどろかされる。はちきれんばかりの巨体、ずんぐりとした大頭、ぎょろりとした大きな眼、アメフト選手のようにふとい首、そして相撲取りのようにひろい肩幅だ。ひきつれている獰猛な薩摩犬も子犬のように小さくみえる。
西郷の身体は、正確にいうと身長五尺九寸あまりといったから約180センチメートル、体重は二九貫あまりだそうだから110キログラムぐらいか。その魁偉な容貌とともにこの巨大な体躯はみる者を圧倒させる。
もっとも、西郷は身体が大きいだけでなく太ってもいたが、それは中年になって薩摩の南の南西諸島にながされ、座敷牢のような生活をしいられたためで、わかいころはこの銅像のようには太っていず、眼はぎらぎらとしていたが、筋骨のたくましい青年だったようだ。個人的には、いまアメリカの大リーグのシアトル・マリナーズで捕手として活躍している城島選手のような筋骨たくましい青年ではなかったか、とおもう。
それはともあれ、この胴像はじっさいの西郷を正確にうつしているのだろうか?
というのも西郷は、生前、じぶんが偶像化されることをきらって写真をいっさいとらせなかったからだ。とするとこれは、西郷の写真をみて彫刻されたものではない。もちろん、西郷死後二十年もたってからつくられた銅像だから、彫刻家が実物の西郷をみることなど不可能だった。
ではなにによってつくられたのか、というと、それは明治八年に、紙幣や切手の肖像画の製作のために来日したイタリア人の銅版画家エドアルド・キヨソーネの絵によってである。キヨソーネは、西郷の死後、西郷の友人たちの依頼におうじて、おおくの人から話をきいて考証をかさねてかいた肖像画だ。彫刻家はそれをモデルにしたのである。
しかし生前の西郷を知るおおくの人は、できあがったこの胴像をみて「西郷さんそっくりだ」といっているから、その容貌や体躯なども、おおむね真実にちかいものだろう。
すると、その体格なども嘘ではないことになる。そこでかんがえてみると、じつは大男は、西郷吉之助ひとりではなかった。かれの兄弟たちもみな吉之助に似て巨漢ぞろいだった。
たとえば三男の西郷従道も大柄だったが、かれはあるとき「じぶんの家の人間はだんだん小さくなってきている。父のきた筒袖をきてみたらダブダブだった。その父より祖父のほうがはるかに大きかった。さらに先祖にはさらに大きい人がいたそうだ」といっている。
じじつ、西郷家の五代の吉兵衛は身長が六尺をこえた精力絶倫の大男で、江戸の力士の小結と相撲をとってもひきわけたほどだった、という。
つまり西郷一家には、日本人ばなれした身体をつくる血がながれていたのだ。
そういう日本人ばなれした西郷の彫像をみていると、わたしたちは数年前に国技館をわかせたハワイ出身の力士の武蔵丸のことをおもいだす。武蔵丸の容貌・体躯がまったく西郷と似ていたからだ。じっさい、鹿児島県では「さつま武蔵丸の会」なるファンクラブまでうまれたほどである。
武蔵丸光洋(こうよう)は、1971年に太平洋の東サモアでうまれた。
ハワイから四千キロメートルほども南にある島である。純粋のポリネシア人といっていい。現役時の身長は192センチメートル、体重は237キログラムといったから西郷よりひとまわり大きいが、ファンたちは西郷の再来のような眼で武蔵丸をながめたものである。
かんがえてみると、じつはハワイからやってきた力士はこの武蔵丸にかぎらない。高見山大五郎も、小錦八十吉も、また曙太郎にしてもみな大男ぞろいだった。そしてポリネシアンである。
たしかに南太平洋の諸島にすむ人々のなかでポリネシア人は、他のミクロネシア人やメラネシア人にくらべて身体が大きい。それはモンゴロイドやネグロイドの血のほかに、ポリネシア人だけにはコーカソイドの血がはいっているからだ、といわれている。
とすると、西郷家にもポリネシアンの大男の血がながれていたのだろうか?
日本の電車は「アジア各地の顔の展示場」
そういう人種的なことをかんがえると、薩摩にはかつて隼人といわれる人々のいたことがおもいうかばれてくる。
さらにそのすこしまえには、南九州に熊襲とよばれた人々もいた。
これらの人々は史書によると、東北の蝦夷とどうよう大和朝廷に歯むかった「まつろわぬ人々」とされた。夷人(いじん)・雑類(ぞうるい)などとよばれ、日本の国の「異族」のようにとりあつかわれてきた。
しかし、はたしてかれらは異族だったのだろうか?
じつは、異族扱いされている人々はこのほかにもある。九州、関東、さらに大和の山奥にもすんでいた、という土蜘蛛だ。かれらもマツロワヌ人々として大和朝廷から敵視された。
このような「異族」に共通していることは、そこに隼(はやぶさ)だの、熊だの、蝦(えび)だの、蜘蛛だのといった動物の名がつけられていることである。それはあきらかな蔑視の呼称ではないか。第二次大戦中、日本が敵対するアメリカやイギリスにたいして「鬼畜米英」といったのに似ている。
ところがおなじ種族でも、降参してきたものには別の名をあたえている。土蜘蛛にたいする国栖(くず)だ。
これについて神話学者の吉田敦彦は「ツチとクニとは野性的世界と文化的世界の違いをあらわす」といっているように、それは抵抗するか同化するかの違いだったろう。抵抗したものは未開人、同化してきたものは文化人とみなす発想である。
とすると、ほんらい異族といったような人種的あるいは民族的意味の違いはあまりなかったのではないか。たんに敵対者といったぐらいのことではなかったか?
わたしは他のところでたびたび論じたことであるが、日本人はよく「単一民族」などといわれるようにひとつの強力な文化的統一性をもっている。しかし、人種的にみると、日本人はおおくの人種がよりあつまった「多人種」である。つまり「多人種単一民族」というのが日本なのだ(拙著『呪術がつくった国日本』)。
じっさい、ヨーロッパからアジア諸国を旅してきて日本にやってきたわたしの知っているドイツ人は「アジア各地ではそれぞれ〈人種の固有の顔〉があるのに、日本にきてたとえば電車にのってみると、まるでデパートの商品のように〈雑多な顔〉がならんでいる。そこでよくよくみると、それらはいままで旅してきたアジア各地の顔なのだ。つまり日本の電車のなかはアジア各地の顔の展示場である」という。
たしかに血液のDNAをしらべてみても、その国の固有の民族の血がのこっている割合は、韓国では60パーセント、中国では40パーセントほどといわれるのに、日本では5パーセントぐらいだそうである。つまり日本人は、このドイツ人がいうようにアジア各地の人種の寄りあつまり、あるいは混血というわけだ。
その寄りあつまり、ないしは混血の過程は歴史的なものである。
まずふるくは氷河時代に、北方ユーラシアの狩猟民がマンモスなどをおって海面の干上がった海峡を南下して日本にやってきた。
またいまから一万二千年まえごろに氷河時代がおわって海峡が復活し、オホーツク海や日本海岸では採集民や漁労民が丸木舟ではしりまわっている。
そして六千年ほどまえに地球温度があたたかくなると、こんどは南方アジアから雑穀などをもった人々が北上をはじめ、二千五百年ほどまえに中国大陸で長期の動乱がおきると、鉄器や稲作をもった人々が亡命してくる。
さらに二千年ほどまえからさらに寒気がきびしくなると、またまた北方から鉄で武装したシベリア遊牧民や狩猟民が南下してきて日本列島は大混乱におちいる。中国の史書にいう「倭国動乱」だ(拙著『日本人の心と建築の歴史』)。
最終的にそういう動乱を収拾した大和朝廷によって、やっと国家が形成されたのだった。
とすると、ポリネシア人の血が日本にはいってきたってちっともおかしくないではないか? ポリネシア人もがんらいは東南アジアでコーカソイドつまり白人種をベースに種族が形成され、そこから南太平洋の島々に拡散していったからだ。ポリネシア人が、東南アジアからミクロネシアの島々をつたってハワイやサモアにまでいったことをかんがえると、日本にやってくることなどいとも簡単なことだっただろう。
そうすると問題の隼人であるが、ハヤトの人々のあいだにのこることばをしらべた歴史学者や言語学者は、ハヤト族は中国南部やインドネシアとつながりがある、といっている(井上辰雄『熊襲と隼人』)のが注目される。
異族だらけの平和共存社会
こうしてアジア各地から、いろいろの人種や民族が日本にやってきた。
前回にみた蝦夷(えみし)もその一つである。
エミシについてはふるくから「エミシ・アイヌ説」と「エミシ・日本人説」とがあり、つまりエミシを異族とみるか日本人とみるかの対立があり、そのどちらも有力な根拠をしめしてなかなか決着がつかないでいる。
しかしそれは日本人を「単一人種・単一民族」とみるからであって、そうではなく日本人を「多人種・単一民族」だとみれば、エミシも、クマソも、そして大和人もみな相互に異人種・異民族でありながら、やがて日本人という単一民族になっていったのである。ハヤトもその例外ではない。いうまでもなく人種は生物学的概念であるが、民族は文化的概念だからだ。」
となると、日本人とはいったいなにか?
それは、大陸アジアのあちこちからやってきた人々が、この列島からさきにはもういくところがなかったことにそもそもの原因がある。そのさきは太平洋だからだ。そこでみなこの島国にとどまらざるをえなかった。
ではそうやってたくさんの人々が日本列島におしこめられたとなると、人々のあいだに争いがおきなかったのだろうか?
じつはこの島国には、人々が共存せざるをえない条件があった。
というもの、氷河時代いご、ここには大陸のような平原がなく、したがって大型哺乳動物の大集団も存在せず、また大平原農耕もままならず、人々はせいぜい山と海の接点あたりで、浜辺の貝や海草をとったり木の実や小動物をひろったりして生きていかなければならなかったからだ。
そこでアジア各地から日本列島に大部族でやってきた集団も、ここではみな家族単位に解体してしまった。そしてあっちの州島こっちの台地といったぐあいにわかれてすまざるをえなかった。そういうほそぼそとした家族集団単位の社会では財の蓄積もおきず、したがって戦争もおこりようがなかった。つまり過疎社会であっても平和だったから、たとえば縄文時代も一万年もの長い間つづいたのである。
しかし家族ごとに分散割拠するとなると、生殖つまりわかい男女の性の問題をどうするのか?
それは男たちが、みなとおくの家族社会の女をおとずれる「妻問い」をおこなうことによって解決した。そのとき男たちが、女たちの歓心をかうためにもっていったであろうさまざまの「お土産」がこの日本列島における物資の交流の原点となったのである(拙著『一万年の天皇』)。
そうして超過疎の分散社会であるにもかかわらず、日本列島での物資と情報の交流は非常に活発におこなわれた。北は北海道から南は沖縄まで、人々はおなじような土器をつくり、おなじような土偶をあがめ、おなじような竪穴住居にすみ、おなじような弓矢をつかって獲物をとった。つまり単一民族が形成されていったのである。
そうして人々は北からやってこようと南からこようと、ひとたびこの「特異な島国」にやってくると、みなおなじような生活様式をもたざるをえなかった。
さきの東北のエミシがもっていた蕨手(わらびで)刀は、東北のみならず北海道からも大量に出土するし、さらに樺太南部から千島列島にかけてひろがるオホーツク文化にもみられる。つまりエミシも、アイヌも、そしてオホーツク人もみな共通の文化をもっていたのだった。
そうして多人種多民族でありながら、単一の日本文化が形成されていった。異族たちが「共通の日本文化」をもった、というわけである。
異族のなかの異物
この日本列島にうまれたそういう「共通の日本文化」の一つにサムライがある。
それは東北のエミシ社会からうまれた、とわたしはさきにのべた。しかし、ひとたびサムライという階層が形成されるとそれは日本中にひろがり、日本社会の有力な勢力になっていった。そして大和に国家がつくられてから約千年、この国を運営してきた貴族政治が破綻をすると、サムライはかわって日本国家の運営者になっていった。
前回にのべた鎌倉幕府である。
それは室町幕府、織豊(しょくほう)政権とつづいて江戸幕府にうけつがれたが、徳川支配も二百年をすぎると日本の国の内外の矛盾が激化して、サムライの統治能力そのものが問われるようになった。
その矛盾をもろにうけて、いろいろの打開策がはかられるなかで、おおくの血をながした国が薩摩藩だった。
西郷はそこにうまれた。
かれは武蔵丸に似てポリネシアンの血をうけたような巨大な容貌体躯の持主だったが、サムライの家にうまれ、サムライの教育をうけ、サムライとして生き、そしてサムライとして死んでいった。
かんがえてみると「薩摩隼人」もまたエミシとおなじように狩猟民として生きたながい歴史をもつ。そういう流れをうけついだであろう西郷であってみれば、なおさら真のサムライ人だった、といえるだろう。
そのかれの幼少時代の話は、今日、なにものこっていないが、子供のときからの友達であった有村俊斎のちの海江田信義は「西郷は口をひらけば〈国家危急存亡のときだ〉といい、少年のくせに日本の国をひとりで心配していたので、しまいにはだれもつきあわなくなり〈異物〉という渾名(あだな)がついていた」といっている。
サムライ西郷の志は、少年のころから国家の問題にあったのだ。
多人種多民族という異族のなかの異物というべきか?
「死せる西郷、生ける顕官たちをはしらせる」
もういちど西郷の胴像にかえる。
この銅像をよくみると、じつは西郷の身体が大きいだけではない。その着ているものがなんともけったいなのである。
というのは「明治維新の元勲だ」というのに、胸元も裾もはだけた、しかも袂のない筒袖だからだ。それを兵児(へこ)帯一本でしめあげている。
筒袖はがんらい子供の着るものである。
大人が着るばあいにも、せいぜい寝巻か仕事着だ。ふつうそういうものを着て外出などはしない。であるのに、この銅像の西郷は外をあるいている。その証拠に腰に脇差をさしている。
明治三十一年にこの銅像の除幕式に出席した西郷の妻のいとは「宿んしは、こげんお人じゃなか」といって物議をかもした。同席した西郷の弟の従道がなだめるのにこまった、という。
それは、銅像の顔がじっさいの西郷の顔に似ていない、などといったことではない。「律儀なほどに礼儀正しかった主人が、こんな無作法な格好で外出するなんてかんがえられない」ということだった。
銅像の制作者は、明治の彫刻家の高村光雲である。しかしこういうポーズの設定は、一彫刻家にはとうていおよびもつかない判断だった。
じっさい彫刻建立を推進したのは、西郷の幼ななじみだった吉井友実(ともざね)・伊地知正治・税所(さいしょ)篤・樺山資紀(すけのり)らである。そしてこういう「ありえない西郷の姿」を東京のど真ん中の上野の山にうちたてたのもかれらだった。長州出身の伊藤博文が「軍服姿」を主張したのにたいし、途中死亡した吉井友実から建設委員長をひきついだ樺山は「山野で狩をする姿に西郷らしい超凡・脱俗の趣がある」といって実現した、といわれる。
しかし、これはいささか樺山のいいのがれではなかったか、とわたしはおもう。山野で狩をするのに手甲脚半もつけず、靴や草鞋(わらじ)もはかず、草履ばきで胸もはだけ臑もあらわな、まるで散歩でもするような格好でおこなうものだろうか? また狩をするのに弓矢も鉄砲ももっていないのはなぜだろう?
じつは、これはそういう解釈にかこつけて「仕事着の西郷の姿」を人々にみせつけて、とうじ、晴着をまとい、豪邸にすみ、緑酒をかたむけ、美人をはべらせた明治の顕官たちに当てつけたのではなかったか?そういう維新の指導者らの栄耀栄華をきわめた行動に幻滅して、西郷はとうとう故郷・薩摩から挙兵したのではなかったか?とおもわれるからである。
この除幕式に出席した長州出身の内閣総理大臣の山県有朋が、そのみじかい祝辞のなかで「君は欲のない人だった」とポツリといったのが印象的である。山県はかつて汚職事件をひきおこして西郷にすくわれ、また城山に西郷を追いつめたときの政府軍の総帥だったことをかんがえると「栄耀栄華をきわめた張本人ともいうべきこの維新の元勲」も万感胸にこもるものがあったろう。
かんがえてみると、世界に偉人の銅像はおおいが、しかしこんな「仕事着の偉人像」はあとにもさきにも西郷像ぐらいではないか? そしてその西郷像のなかに、こういう「かくされた意図」をみるのもわたしだけだろうか?
けれど、そういう「意図」が人々にうけいれられたのだろう。この「けったいな銅像」は明治の日本人によろこんでむかえいれられた。さらにむかえいれられただけでなく、以来今日までの百二十年間、上野の山に立ちつづけている。もし政府がこの銅像を「不謹慎だ」などといって撤去でもしようものなら、それこそ暴動でもおきたにちがいない。
第二次世界大戦中、資源のない日本は、国民の鍋、釜をはじめおおくの金属資源を回収したが、そのとき人々からしたしまれた渋谷の忠犬ハチ公も弾薬になってしまった。ところがこの西郷像だけは、ひとり上野の山に立ちつづけたのである。
また第二次大戦後に、顕官たちの末裔の何人かは戦争犯罪者になり、その別邸のおおくは占領軍の将校宿舎などになった。ところがおなじ占領軍もこの西郷像には一指もふれなかったのである。
「死せる西郷、生ける顕官たちをはしらせる」といっていいか?
「一の太刀をはずされれば死ぬだけよ」
ここで、ともに明治維新をたたかった薩摩と、長州その他の藩とのあいだのサムライのあり方をめぐっていろいろの違いがあったことに注目したい。
というのは、いまみた西郷の仕事着と維新の顕官たちの晴れ姿をくらべてもわかるように、いっぱんに薩摩は長州その他の藩にくらべて地味だった。
また討幕運動中も長州藩をはじめおおくの勤皇の藩士たちが伏見や祇園の待合などにかよったのに、薩摩藩の藩士たちにはほとんどそういうことがなかった。
「それはなぜか?」というと、薩摩藩では六歳から二十四、五歳までのあいだの藩士の男の子は、徹底したサムライ教育をうけたからだろう。それを郷中(ごじゅう)教育という。
郷中教育の郷とは方限(ほうぎり)ともよばれ、武家町のなかの町内ぐらいの大きさの地域である。幕末には鹿児島に二十三ぐらいあった、という。その郷ごとに組織された青少年が自主的におこなった自治的な教育だ。
だからそれは正規の教育ではない。正規の教育はべつに孔子廟に附置された学校や藩校の造士館などでおこなわれた。
郷中教育で大切なことは、子供たちに「サムライとはなにか?」ということを徹底してをおしえることである。小さいときからサムライ精神をたたきこむのだ。それは潔さと勇敢さと弱者にたいするいたわりの三つとされた。それが人民の指導者たるべきサムライの必要な資質とされたのだ。それを知るために、子供たちの身体に耐乏精神がたたきこまれた。
まず「稚児(ちご)」といわれる六歳から十四歳までの子供たちは、いつも蓬頭(ほうとう)乱髪で木綿の着物をきていたが、それもみじかい袖や裾だった。手首もむきだしであり、膝小僧もやっとかくれるほどである。そのうえ夏も冬も素足だ。それは、上野の西郷像の姿そのものといっていい。
そして毎朝五時半におき、六時には「二才(にせ)」といわれる兄弟子のところに集合しなければならない。そこでニセの指導にしたがって中国の古典などの素読や暗誦にはげむ。そして家にかえって家事手伝いをし、そのあとやっと朝食だ。おわって学校にいく。あるいは郷中の日課にとりくむ。
午後四時になると、薩摩藩独特の剣法である示現流の鍛錬がまっている。
その鍛錬の基礎とされたものは、木刀で高さ2メートルぐらいの若木の立木を一撃のもとに倒すことだ。
高さ2メートルといっても生きた木である。直径も5、6センチはあろう。それを木刀で切りたおすのはよういではない。しかしそれをやらせる。できるまでやらせる。
その趣旨は、一の太刀で相手をたおし、二の太刀はかんがえないことにある。もし相手に一の太刀をはずされれば「ただ死ぬだけよ」という。一の太刀に生死のすべてがかかっているのだ。捨身といってもこれほどの捨身はない。おそるべき剣法というほかない。
であるから諸国の剣士たちは薩摩の示現流を極度におそれた、という(加来耕三『日本人は何を失したのか』)。
薩摩藩はそれを郷中教育でやらせて、薩摩の武士の子どもたちをサムライにそだてていったのだった。
道で乙女にあえば見もせずに逃げる
いっぽう、かれらにたいする禁忌もきびしい。
まずわかい女性と会話することが禁じられる。
道で乙女にあえば、見もせず逃げるようにとおりぬけることと指導される。とうじの話をいろいろしらべると、わかいサムライたちは若い女をまるで「黴菌」かなにかのようにみていたようである。徹底的にわかい女性を忌避したのだ。
また過度の飲酒も禁じられる。歌舞音曲も規制された。
さらに金をもってはならない。買物なども特別のことでないかぎりゆるされない。
つまり徹底して女と金が忌避され、かわって耐乏精神が称揚された。そしてみずからの志に生きるようもとめられた。それがサムライとされたのである。
すると、これはもうほとんど仏僧の修行といっていいではないか?薩摩のサムライは、修行者あるいは聖職者だった、といえるのである。
西郷はそういう郷中教育でそだった。
西郷だけでなく、おおくの薩摩出身者も郷中教育のなかでそだっていった。だからこそ、さきの「仕事着の西郷像」がうまれたのだろう。「仕事着の西郷」のなかに薩摩のサムライ精神が凝縮されているのである。
じっさい、明治の顕官たちが歌舞音曲にあけくれ、金殿玉楼で女たちとさんざめいていたのを、薩摩出身者たちは苦々しいおもいでながめていたのではなかったか? 西南戦争の発端も、案外、そういうところにあったのではないか?とさえおもわれるのである。
「おいどんが転んで怪我をしたのじゃ」
ただ、この郷中教育はきびしい鍛錬ばかりではない。
そこでは詮議ということが重要視される。「何事によらず徹底的に話しあえ」というのだ。問答無用ではなく、問答は有用なのである。そして「衆議をつくせ」という。
その詮議のなかでも、大事なことは咄嗟の判断である。
それは、衆議をかさね思考をたかめていくうちにしだいに咄嗟の判断ということが身につくようになる。その咄嗟の判断が、サムライにとっていちばん大切な出所進退なのだ、という。
それは人が切羽つまったとき、たとえば子どもが二人いてどちらかしか助けられなかったときどういう判断をくだすか?というようなことだ。そういう具体的な問題がいろいろ提示され、わかきサムライたちに徹底的に詮議させたのである。
じっさい、そういうむずかしい問題は現実にしばしばおきる。
たとえば、郷中どうしのあいだで喧嘩がたえなかった。それはごくふつうのことだった。むしろ郷中教育では、子どもたちの勇気を鼓舞するために喧嘩を公認していたようだ。
ただ公認の喧嘩といっても、それは素手にかぎられていた。絶対に刀をぬいてはならなかった。もし刀をぬけばただちに相手を殺さなければならない。そしてそのあとじぶんも切腹しなければならなかったのである。
西郷が十三歳のときだった。
かれが属していた加治屋郷中にたいして、他の郷中の悪童たちが喧嘩をふきかけてきたことがある。そのとき一人の子どもが、大きな西郷にたいして刀の鞘ごとなぐりつけた。とたんに刀の鞘がわれて刀身がとびだし、西郷の右肩が斬られた。
子供たちは騒然となったことだろう。
鞘でなぐりつけた少年も抜き身をもったまま真っ青になったにちがいない。
そのとき、西郷はこういった、という。
「おいどんがころんで怪我をしたのじゃ」
とりまいていたまわりの子供たちは、呆然となったであろう。
だが、西郷はそういいはった。
それで喧嘩はおわった(堀和久『西郷隆盛と維新の謎』)。
しかし、このとき斬られた傷のために、西郷の右肩の筋肉の一部は、それいご、きかなくなった。ために西郷は剣術修行をあきらめた、という。
後年、維新の運動のなかで、西郷は咄嗟の判断をしいられる場面に数おおく遭遇した。しかし、かれはそのつど問題を的確に処理していった。
そういうことがたびかさなったので、むずかしい問題がおきるたびに人々は西郷のほうをながめるようになった。西郷の一言は、人々のあいだに万鈞(ばんきん)の重みをもったのである。
よく「明治維新は西郷一人がなしとげた」といわれるゆえんである。
それも、この郷中教育の賜物だったろう。
「命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人であれ」
こういう郷中教育の趣旨は、なんどもいうように人民のうえにたつべきサムライの修行にあった。それを青少年時代の十七、八年間に徹底しておこなわれた。すると、そういう精神は、一生、身につくものである。
そういう精神が身についた結果、西郷の有名な言葉がおもいだされてくる。
それは、
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末にこまるものなり。この始末にこまる人ならでは、艱難をともにして国家の大業はなしえられぬなり(山田済斎『西郷南洲遺訓』)。
つまり、ここには長生・蓄財、さらには地位・名声をも否定したサムライの生き方というものが提示されている。いいかえれば「聖職者としてのサムライ」の姿である。
そういうサムライをつくるために、薩摩藩は子供たちにわかいときから耐乏精神をたたきこんだのであるが、のちにさるイギリス人がこの郷中教育を見聞しておおいに感銘をうけ、それを本国につたえてボーイスカウトがうまれた、といわれる(上田滋『西郷隆盛の思想』)。
なお幼少のときからこういう徹底したサムライ教育をおこなったのは、江戸時代に三百藩あったとはいえ、他には会津藩ぐらいしかなかったろう。
その会津藩と薩摩藩が幕末において、主義がちがったとはいえ敵味方にわかれて死闘を演じなければならなかったのは、歴史の皮肉をとおりこして日本の悲劇であった。
なぜそうなったか、ということをふくめて、明治維新というものをおおくのサムライ、そのなかにあって傑出したリーダーだった西郷の行動をとおして冷徹な眼でみてゆきたい、とおもう。