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A論  芸術とは何か

 


1 芸術の三つの分野

芸術には、大きくいって三つの分野がある。クラフツ、アーツ、それに現代アーツである。わたしはそれを技術的芸術・芸術的芸術・学術的芸術と解している。
まず技術的芸術とは、実用の役に立ち、かつ、人の心を動かすもので、ふつう工芸とかクラフツなどといわれる。昔から存在するもので、形は違うがどこの国にも、あるいはどこの社会にもあるものといっていい。
それにたいして芸術的芸術は実用の役には立たず、ただ人の心だけを動かすもので、ファイン・アーツとか単にアーツなどといわれる。
十九世紀初頭にフランスに設けられた美術学校であるアカデミー・ボーザールから生まれて全世界に広がった。先駆的には中世末のタブローの絵つまり額縁のなかに入れられた絵の流れを引いているといっていい。
ただ日本では、明治維新まで掛軸などの一部の例外を除いて普及しなかった。数多くの仏像も宗教的偶像であり、日本画もたいてい襖などの装飾として描かれ、浮世絵も絵草紙のなかのイラストとして扱われるに過ぎなかった。アーツはあまり発達しなかったといっていい。
三番目の学術的芸術はわたしの呼称によるものであるが、実用の役に立たず、またかならずしも美的に心を動かすものともいえず、ただあらゆるジャンルでの未知の世界を学術的に開示して人々を驚かせ、さらには感動をも呼び起こさせるもので、現代芸術、現代アーツなどといわれる。
十九世紀に登場した非ユークリッド幾何学がその登場の契機になったと考えられ(注1)、一部の抽象芸術などもこの分野に入れていいだろう。わたしが学術的という所以である。
とりわけ二十世紀に入って新大陸のアメリカでは、日常世界と異なったさまざまな世界が次々に提示されて現代アーツの主流になってきたのであった。
なお以上の三つの芸術の分野は、発生的にはクラフト、アーツ、現代アーツの順で起きてきたが、しかしそれは芸術の進化を意味するものではなく、強いていえば芸術における新しいジャンルの登場、いわば芸術分野の拡張を意味するといっていいだろう。
したがって今日においても、それら三者はみなそれぞれに存在価値をもっているのである。


2 クラフツ

さて日本の古いクラフツとしては縄文土器が挙げられる。実用の器であるだけでなく、そこに見られるたとえば縄目の文様は、割れやすい土器に強靭な縄のマナつまり魂を与える、という点で、縄文人に深い感動を呼び起こさせただろう。
一方、弥生土器からはそういったマナは消え去ったが、しかし轆轤を使わないで示されるその姿形の端正さが人々の心を打った。それは現代人にも通じる手仕事の美しさである。そういった手仕事の美しさは、以後の日本のクラフトの生命として今日まで受け継がれてきたといえる。
さて、ヨーロッパのギリシャ彫刻やローマ彫刻、その他の写実彫刻などもまたその多くは同様のクラフツであった。ギリシャ彫刻も本来はみなギリシャの史実を語る神殿の記念品として作られたものであったから、もともとは実用性の高いものだった、つまり元来はクラフツであったといえるだろう。

縄文土器 弥生土器
縄文土器 弥生土器

3 アーツ

 しかしその美しさゆえに、とりわけ古代ギリシャの後期の彫刻などは今日ではアーツと見られている。たしかに古代エーゲ海世界においては、後期の作品は作者の名前が明示され宗教性がひそめられて、作品としても単独に商取引されたようだからアーツといえるだろう。ミロのヴィーナスや、また古代ローマのアグリッパなどがそうだといえる。
それらの彫刻の一瞬の表情のなかに人々は永遠の美を見たのである。
 ただ中世ヨーロッパにおいては、古代ギリシャ・ローマ世界とはいったん社会的・文化的断絶が起きたためにその影響はつながらなかったが、ルネッサンスになって再び古代ギリシャやローマの文化が見直されるなかで、アーツが次第に復権し、さきのエコール・ボーザールの登場によって花盛りを迎えるのであった。

ミロのヴィーナス ローマのアグリッパ
ミロのヴィーナス ローマのアグリッパ

4 現代アーツ

 さて、二十世紀のアメリカの芸術家のマルセル・デュシャンやアンディ・ウォーホールに代表される作品は現代アーツである。
「泉」と題するデュシャンの小便器は、カランを捻ると確かに水が出るという点で、いわば泉の暗喩といえる。都会のビルのなかの泉である。
「マリリン・モンロー」と題するアンディ・ウォーホールの九枚の絵は、マリリン・モンローの顔の色を変える、つまり化粧をさせることによっていろいろの女に化けさせることができる。そしてそれが現実世界である、とすると、マリリン・モンローという女はどこにもいないことになる、というこれまた現代世界の新しい見方を提示するものである。

泉 マルセル・デュシャン マリリン・モンロー アンディ・ウォーホール
泉_マルセル・デュシャン マリリン・モンロー_アンディ・ウォーホール

5 工藤哲美

 そういう現代アーツは、日本人にはなかなか理解されないものとおもわれてきたが、しかしここで工藤哲美の作品を見ていただきたい。
 工藤哲美の父の出身地は青森県であるが、彼は一九三五年に大阪で生まれ、父が若くして死んだために母の実家の岡山で育ち、東京芸大を卒業したのち、読売アンデパンダン展などで活動していた。
その工藤が、たとえば一九六二年一〇月にパリのギャラリ・ドゥ・セルクルで発表した「インポ哲学」をどう見るか? 
彼の前後の作品には、ヨーロッパの父系社会にたいする疑問と日本の母系社会への回帰が強烈に見られるが、この作品はその帰結といってもいいものとおもわれる。つまりギャラリーの一室の、天井といわず壁といわず無数に展示された赤や青や黄や黒の、よれよれの、うす汚れた、しなびた男性器は、ヨーロッパ父系社会の末路を現わしている、といえないか? 
じっさい、ヨーロッパの国々は産業革命をやったのはいいが、そのあと多くの国々が帝国主義国家になって世界の国々を植民地化した。その挙句の果てには第一次、第二次世界大戦を引きおこして何百万、何千万という若者たちを殺し、いまなお米ソ対決、中東戦争、東欧紛争などの争いを繰りかえしている。
そういういわば父系社会の醜悪な姿といっていいものを、この工藤の「インポ哲学」が明示している、といえないか?  パリの観客に衝撃を与えたわけである。
その工藤は、また一方では「マザーコンプレックス・パラダイス」(一九八〇)、つづいて「縄文の構造=天皇制の構造=現代日本社会の構造(天皇制の構造について――聖なるブラックホール、一九八三)、「縄文の雪」(一九八五)、さらには「縄文の精子の生き残り」(一九八六)などといった母系社会ないし縄文社会に回帰するような作品をつくっている。
わたしは過日、乞われて青森県近代美術館における「工藤哲美記念シンポジューム」に参加したが、そこでわたしは、日本の国土の構造から特異な形の縄文集落が生まれ、そこに太陽観測を基点とする自然の暦が作られ、その暦に従う採集活動によって母系社会が成立し、そこでの「家母長制」ともいうべきものがのち天皇制に止揚され、そしてその天皇制の在り方をめぐって日本社会の争乱が続き、それは今日にもおよんでいる、という報告をおこなったのである。
残念なことに工藤は一九九〇年に享年五十五歳で死去したが、わたしは、わたしとほとんど同じような考え方をもっていたアーチストを知って感慨深いものがあったことを報告しておく。(注2)

インポ哲学  工藤哲巳
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6 日本芸術の原点

 さて、そういった欧米を中心とする芸術の動きにたいして、日本の芸術を見よう。
 欧米の芸術が、クラフツ→アーツ→現代アーツと、いわば具体的な事物の皮を玉ねぎの皮を剥ぐがごとくに剥いでいってさまざまな美の本質に迫ろうとするその態度はもちろん大いに評価すべきことではあるが、しかしその方向は、いわばすべての物事の本質に迫ろうとする、内向きの方向である、とはいえないか?
 これに対して日本の芸術の特色は、一口にいって事物をその置かれた環境のなかで広く考えようとする、いわば外向きの方向ということができる。それは時と所と場合の一瞬のTPOのなかに感動を見る行為といってもいい。それが日本の芸術の伝統なのである。
たとえば、清少納言は日本の自然をつぎのように書き留める。

“春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさ
きだちたる雲のほそくたなびきたる。
夏はよる。月の頃はさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。また、ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし。雨など降るもをかし。
秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさくみゆるはいとをかし。
日入りはてて、風の音むしのねなど、はたいふべきにあらず。
冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにあらず、霜のいとしろきも、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。
昼になりてぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき灰がちになりてわろし。”

 まず、ここで取り上げられた時刻は夜明けであり、夜であり、夕暮れであり、早朝であることに注目したい。つまり日中ではないということだ。昼の炭などは見られたものではないなどといっている。日本の自然の動きのもっとも美しいのはそういう朝夕の時刻なのである。
しかし、わたしたちが日常、古寺の庭などを見るのは日中に限られている。つまり、現実には日本の芸術のことなどは何も構われていない、ということである。
そして彼女はいう。春の夜明けには太陽、山、雲が、夏の夜には月、闇、蛍、雨が、秋の夕暮には夕日、山、烏、雁、風、虫が、そして冬の朝には雪、霜、火、炭が、それらの環境と合いまって一幅のTPOの美を構成する。そういうダイナミズムが日本の美であり、移りゆく芸術なのである。
安藤広重はそれを「近江八景」で具体的に示す。いずれも時と所と場合の三つの状況が織りなす環境のなかでの事物の動きを示す移りゆく美なのである。

石山の秋月 夜 瀬田の夕照 夕 粟津の晴嵐 夕 矢橋の帰帆 夕
石山の秋月 瀬田の夕照 粟津の晴嵐 矢橋の帰帆

三井の晩鐘 夕 唐崎の夜雨 夜 堅田の落雁 夕 比良の暮雪 夕
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そういった身の回りの何でもない事物の動きと環境との関わりを示す日本の芸術の特色というものを、日本人はいま一度思いおこしていただきたい、とわたしはおもう。
〈注1〉 十九世紀に成立した「非ユークリッド幾何学的世界」
今日のロシア対ウクライナ、アラブ対イスラエル、シーア派対スンニー派などの争いはユークリッド幾何学では分からない。日本のインテリは一般にユークリッド幾何学しか分っていないし、かつ、分ろうとしない。それを政治的には「平和ボケ」という。(例「みんな仲良くすればいいのに」「戦争なんか止めて楽しく生きればいいのに」という発想。世界をユークリッド幾何学的に見る思想。アリの世界とハチの世界、あるいはチョウの世界の相違を考えない。考えられない。父系社会も母系社会も考えない。)
たとえばユークリッド幾何学的空間は平面であるのにたいして、リーマン空間は球体、ロバチェフスキーとボーヤイの空間は鞍体(鉄アレイ)を考える。しかし現実の世界はアリの世界にほぼ近い。リーマンのいう「多様体の世界」である。
そういう世界の開示には、セザンヌの厳しい現実(例、聖ヴィクトワール山、カルタをす
る人々など)、ゴッホの精神病の世界、ゴーギャンのタヒチの世界、ピカソのキュビズム
つまり「アリの世界」などがある。
(注2) 工藤哲巳シンポジウム ―「縄文の構造=天皇制の構造=現代日本の構造」

日時:四月一二日(土) 一三:〇〇―一四:三〇
場所:青森県立美術館1Fシアター

パネリスト: 上田篤(京都精華大学名誉教授)
  島敦彦(国立国際美術館副館長)
  飯田高誉(青森県立図書館総括副参事)
  司会: 池田亨(青森県立美術館美術企画課長)


 青森県立美術館での工藤哲巳展初日に開催されたシンポジウム「縄文の構造=天皇制の構造=現代日本の構造」では、大阪万博「お祭り広場」の設計者であり特異な縄文論で知られる上田篤氏と、工藤哲巳研究の第一人者として知られる島敦彦氏をお迎えし、大胆に想像力を飛躍させ縄文と天皇制と現代日本を直結させた晩年の工藤哲巳の作品群に、パネリストそれぞれが真摯に向き合うことで、その本質とはなにかを再検討しました。
 まず基調講演では、上田氏が、環状列石や竪穴式住居、集落の配置、土偶のほとんどが女性の形をしていることなどから、縄文の社会は太陽信仰を中心とした母系社会だったと推測し、それが天皇制に引き継がれたのではないかと問題提起しました。「例えば、『隋書倭国伝』には推古天皇の使者が隋の高祖文帝に『天皇は太陽がでると政務をやめて1日の残りの仕事を太陽に任せている』と伝えたと書かれているし、『日本書紀』に敏達天皇が太陽を祭る部民として日祀部(ひまつりべ)を設置したという記述がある。実際、現在も天皇が旬儀を行ったり正月に四方拝を行ったりしていることなどは、天皇制が太陽信仰と深く関わっていることを示すものであり、縄文の生活の中心にあったであろう『太陽の動きを読む』ことが社会の発達とともに権力者(天皇)の役割となったと考えられるのではないか。」この仮説から上田氏はさらに論を敷衍し、「神武東征」や「戊辰戦争」などの歴史上のさまざまな内乱は天皇のアイデンテティをめぐる争いだとした上で、従軍慰安婦問題もまた天皇の軍隊をめぐる論争であるという点において同根だとするなら、現代のさまざまな問題として縄文や天皇制は存在していると展開しました。
 では、このような視点から晩年の工藤の作品をみるなら、「縄文」や「天皇」を題名に冠した作品に用いられるブラックホールというモチーフは、どのような意味を帯びてくるのでしょうか。続いて発表した島氏は、初期の作品にみられる原子物理学への関心が、晩年に宇宙物理学におけるブラックホール現象への関心という形ではからずも回帰していたことや、近年の研究で制作された実際のブラックホールのシミュレーション画像と工藤哲巳の晩年の作品が近似していることに触れながらも、工藤が、欧州の父系社会の価値観を「去勢された男性器」というモチーフを用いることで二〇年間にわたって攻撃していたにもかかわらず、日本へ帰国した一九八二年前後から徐々にブラックホールをモチーフに用いるようになった背景を分析しました。
島氏が、上田氏の発表と作家の発言をもとにしながら「工藤作品におけるブラックホールは、宇宙物理学的な意味だけではなく、女性器や軸のない独楽のイメージに重ねてつくられていることから、欧州型の父系社会の対極にある母系社会の構造を表すための隠喩といえるのではないか」と図像学的な視点から考察すると、上田氏は「あらゆるものを強力な重力場によって中空にむかって巻き込み解体し無力化するブラックホールのように、日本の風土とその文化は、ツングース系、南方系、江南系、漢人系、モンゴル系などの異なる人種や食習慣や宗教観を、倭の空なる存在である天皇を中心とした構造に巻き込み溶融してしまう。このような類推によって工藤の晩年の作品群は日本文化の本質を言い表したのではないか」と人類学的な視点からさらに論を進めました。
 両氏の発表を受けたその後の議論では、飯田氏が「母性原理的な天皇制を中心とした日本の構造が回転によって自立する独楽のようなものであるなら、それが倒れるのは、世界大戦や原子力発電所の事故のように自然や他者を征服しようとする父性原理が台頭するときなのではないか」と述べ、母性原理と父性原理の併存という二重原理の問題として議論を展開したのに対して、司会の池田氏は「七〇年代までに圧倒的につくられた男性器を用いた作品群や、聖母子像を用いた《マザー・コンプレックス・パラダイス》といった作品が、聖母信仰にみられるように表面的には母性的な救いや慈愛を求めながらも実態はそれを父性原理によって抑圧する欧州の社会のゆがみを批判するためのものであったとするならば、八〇年代に日本に帰国してから制作されたブラックホール型の作品群は逆に、表面的には父系社会でありながら根底において縄文以来の母系社会が存続している日本社会を批評的に表現するためのものだったではないか」と述べ、工藤が一貫して社会構造の批評をテーマとしていたという観点からさらに問題を敷衍するなど、工藤哲巳の核心に迫るさまざまな問題提起がなされ、いくつもの仮説が提出されました。
 環境汚染や放射能汚染、遺伝子組換え、文化の衝突など現代社会にまつわる諸問題のさまざまな矛盾をうつしだす工藤の作品には、きっと未来の私たちの姿が凝集されているはずです。世界的にみてもこれだけの規模で回顧展をすることは今後もまずないであろうというくらい空前絶後の工藤哲巳展。国際的に高い評価を受ける工藤哲巳の作品群と、その謎に迫る議論に参加すべく、この機会にぜひご高覧ください。
(文責:高橋洋介:青森県立美術館エデュケーター)


B論  庭の話


1 奈良は仏 京は庭

奈良に行くと人はみな仏像を拝む。だが庭を見ることはあまりない。法隆寺にも薬師寺にもこれといった庭がないからだ。
ところが京都では、人々はそそくさと仏像を拝んだ後はたいていゆっくり庭を拝見している。つまり拝んでいる。金閣寺、銀閣寺、清水寺、南禅寺などみなそうである。京都では、仏より庭が観光名所になっている。
それは奈良の寺が本来のシナ式の形、つまり仏像を強烈に意識しているのに、京都の寺は仏像より自然に、つまり日本式に変わってしまったからである。寺というものが日本的に自然化したのである。
その典型的なものをここ捗成園すなわち枳殻邸に見る。
この地は、嵯峨天皇の子の源融の有名な別荘である河原院(東六条院ともいう)跡とされるが、実際には江戸時代初期に本願寺が東西に分派したとき、西本願寺の祖となった浄土真宗十三世宣如上人の「方百間」という大きな隠居所跡で、いまは東本願寺の別院になっている。
その捗成園のなか生活空間は、家康の近習だった本多正信の子の石川丈山が、シナの詩人の陶淵明の「園を日中に渉って趣を成す」(『帰去来の辞』)から構想したという。「舟遊びの場」ということだろう。捗成園という名の由来でもある。
なお別名の枳殻邸は、枳殻つまりカラタチの木で周囲を取り囲んだことから名づけられたという。
なるほど内にも外にも、水や木がいっぱいある。

2 園とは何か?――草木を植える場

 ここで捗成園の「園」という名に注目したい。園とは何か? 
ソノはほんらい「背野」で、邸外の背地のことをいい、再転して「園圃」の義になったという(松岡静雄『日本古語大辞典』)。
そこからわたしは、縄文人の環状集落の「環」の外側の世界がその淵源ではなかったか、と見る。そこは水があったり、草木が生えていたりする自然の空間で、英語でいうとガーデンにあたる。明治にイングリッシュ・ガーデンなどの影響を受けてつくられた日比谷公園などはそのパブリックな姿といえるだろう。
そういう園の原点は、聖書に出てくる「エデンの園」である。「花や実が溢れ、命の木と善悪を知る木があり、四つの川が流れる」(旧約聖書)という、いわば五感を喜ばせる世界である。

3 庭とは何か?――神を迎える場

 ところが日本には古くから、もう一つ園に似たものとして庭というものがある。
 では庭とは何か?
ニハは音声学的には「伸びた場」から転じた、といわれ(松岡静雄『日本古語大辞典』)、するとそれは、縄文人の環状集落の内部広場ではなかったか、とおもう。そこは作業場であるとともに神を迎える場でもあったのである。英語に訳すとプレースとかプラザとかいうことになるだろう。とすると、案外「広場」という日本語が適訳かもしれない。
それを具体的にいうと、京都の寺に多い白露地や枯山水などである。そこには水も草木もない。あるのは砂と石と塀ぐらいである。ために、そこに案内された外国人などはたいていビックリする。
ところが多くの日本人は、その枯山水を飽きもせずにジーッと眺めている。
それが京都の寺の庭を見る一つの姿でもある。

4 神迎えの原点

そういう神を迎える場の原点というと、わたしは日本神話に出てくる須佐之男命の宮づくりの歌を思いだす。それは日本の歌の始原とされる「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」というものだ。
ここで「八重垣」という言葉が三回出てくるにことに注目したい。短い歌の文句のなかで、八重垣という言葉だけで全体の四十パーセントも占めている。異常なことである。しかしこのような異常な事実を考察する国語学者や歴史学者を、わたしは知らない。
そこでわたしは考える。最初の「八重垣」は出雲平野を取り囲む周囲の山々のことだろう。山を垣と見る例は、有名な「大和は国のまほろば、たたなずく青垣…」の倭建の歌にも示される。そしてそこに「八雲立つ」というのは目出度いことである。なぜなら雲は雨をもたらすからだ。田んぼに雨が欠かせない。
次の「八重垣」は宮殿を取り囲む垣そのものである。そこにスサノヲは愛する稲田姫を住まわせた、という。
そして最後の「八重垣」は、直接的にはその宮殿をつくった人々のことを指すのだろう。人垣というようにたくさんの人間がいるとき人は垣にたとえられるからだ。その人垣である人民たちを褒めたたえた歌、つまり人民たちがまるで神さまのように神業の力を発揮して宮殿を建てたという歌の意である、とわたしはかんがえる。
というところから、日本の歌は神迎えから始まった、と見ることができるのである。
とすると、庭は「お祭り広場」だったのだ。
そうすると園と庭はまったく似て非なるものであり、それを混同して「庭園」などと一口にいうのは物事の本質を知らない人のいうことである。
それも一般の人ならともかく、しばしば造園学者や作庭家がそういうのだから困ってしまう。

5 庭は庭師や作庭家が作るものではない

したがってそういう庭は、かならずしも庭師や作庭家が作るものではないといっていい。しばしば人が心に感じ取るものとしてあらわれるのである。「春過ぎて夏来にけらし白栲の衣干したり天の香具山」と持統天皇が歌ったとき、白栲の衣で真っ白になった天の香具山は、持統の心のなかでは神さまの降臨の場、つまり庭になったのである。
さきほどからのべているように、日本の寺で多くの人が庭を眺めているのもじつはそうなのだ。一瞬の光の変化(神)によってあたりが輝くのを待っているのである。じっさい枯山水の白い砂が日光を受けて輝いたとき、背中の仏堂の暗いなかの仏たちも、一瞬、輝くからである。
それを歌にする人がいる。「閑さや岩に沁みいる蝉の声」や「荒海や佐渡に横たふ天の川」などは芭蕉の句であるが、そこに一瞬「心を打つ世界」いわば神の降臨を見る、といってはいい過ぎか? 
しかしわたしはそのような歌作りが庭作りであり、その歌によって何でもなかった風景が光=神になる、と見ている。

6 ベランダから街角までを庭にする

現代でも、そういうことを歌にしている人がいる。たとえば歌人の俵万智だ。次にわたしが選んだ一月から十二月までの彼女の歌を並べるが、ゴチで示した下の句がその「一瞬の光」であり「神の来臨」であると解することができないか?

一月:マンションの九階に育つベンジャミン水やれば土の匂いをたてる
二月:子供らが十円の夢を買いに来る駄菓子屋さんのラムネの緑
三月:咲くことも散ることもなく天に向く電信柱に吹く春の風
四月:大木となって立ちたき思いあり我の両手を奪いあう子ら
五月:ベランダにタオルを干せば一枚の風が生まれてよじれてゆけり
六月:思いきり愛されたくて駆けてゆく六月、サンダル、アジサイの花
七月:語るべき人を持たねば多摩川を隈なく穿つ雨を見ている
八月:今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海
九月:ドアをしめ一人の一歩を踏み出せば危うい色の夕焼けに会う
十月:小さめの恋してみたき秋の夜パセリわずかに黄ばむベランダ
十一月:サヨナラの形にススキが手を振って駆け抜けてゆく風の輪唱
十二月:隅田川に冬の始めの風吹いて緊張している土手の草々


こうして彼女は「マンションのベランダから街角までを庭にした」とわたしは見ているのである。


C論  日本芸術の原点


1 日本の国の原点

 日本の芸術の原点を語る前に、日本の国の原点を考えよう。
第二次大戦前の日本の国の原点は、神武天皇の橿原即位(紀元二千六百年祭、現在は二千六百七十四年)とされた。
戦後それは否定され、かわりに飛鳥における聖徳太子の「十七条の憲法の制定」(六〇四)あたりが日本の国の原点か、と見られるようになった。
もちろん卑弥呼のいた「邪馬台国」(二C末~三C中)や、金印の発見された「倭の奴の国」(五七)あたりもその候補に挙げられるが、しかし邪馬台国の所在をめぐっていまだに歴史学者のあいだで統一見解が見られず、奴の国に至ってはその詳細は皆無に近い。ただ歴史小説の大家である司馬遼太郎などが「日本の国は弥生時代に始まり、それ以前は闇の時代……」などといっているぐらいである。
一方、バブル経済の花やかなりしころに日本列島の大規模開発が行なわれ、そのとき各地で縄文遺跡の発掘が相次ぎ、に縄文時代が脚光を浴びてきた。なかに大規模な縄文遺跡である三内丸山が発見され「そこには神殿があった」などとする説も生まれたが(九二年、梅棹忠夫)、歴史学や考古学の学者の賛意を得るには至っていない。
そういうなかにあって注目すべきは、三内丸山に先立つ二十年前に画家の岡本太郎が「縄文は爆発だ!」(岡本太郎「太陽の塔」七〇)と叫んだことである。
たまたま岡本と一緒に一九七〇年の大阪万博の「お祭り広場」の設計にたずさわったわたしは、その機縁から一介の建築学者であったにもかかわらず、縄文を目ざす研究の旅を始めたのであった。
そしてその旅は、以後四十年以上も続いている。昨年、ようやく『縄文人に学ぶ』なる一書を上梓し、わたしなりに日本の国の原点が縄文時代にあることを確信するようになったのである。

2 縄文の家と里

 では、その縄文社会とはどんなものだったのか? 
それを一口にいうと、この島国の自然がもたらしたものだ、ということができる。もっとも島国といっても世界に数多いが、日本のばあいは平島でなく山島であり、かつ、四季の変化が多様だったことが大きな特徴である。
つまり日本列島には大平原がなく、山島といってもまるでウナギが密集したように連なる山々ばかりで、それでいてみな結構急峻で、しかも全山がほとんど森林に覆われていたことである。
そういうウナギの密集したような緑の山々のなかの海の近くの尾根に、人々は居を構えたのであった。「わざわざそんな高いところに住まなくても、もっと低い谷などに住んだら?」といわれるかもしれないが、しかしそれらの谷には毒蛇や毒虫が多く、また常時、災害の危険があったから無理だったといえる。
しかしそんな山の上に平らな土地はない。やむをえず人々は多少なりとも開けた尾根を見つけて、大家族ごとに二、三十人ぐらいずつ分かれて住むようになった。そして周囲半径三キロメートルぐらいの山野のなかで、四季折々の食料を見つけて自給自足の生活を送ったのであった。
つまり人々は、住んでいた家の周囲の山野を里にしたのである。

3 女家長

そうして四季折々の食材を得て人々は飢える心配はなかったが、ただ若い男女の配偶者が家の中にいなかったことが大問題だった。
そこでそれらの大家族の里は、いくつかが数珠状につながってつくられた。つまり、おのおのの大家族の里は孤立無援ではなかったのである。ために若い男はいつでも他の大家族の女を訪問できたのだ。のちにいうツマドイである。ヨバイなどともいわれるが、ただし「夜這い」と解するのは俗称で、ほんらいは「男女が呼び合う」行為からきた言葉だった。
ただそのツマドイやヨバイにおいて、各大家族は男を手放すことを許さなかったから男が婿入りすることはなかっただろう。男にかぎらず家の子の家出を許したりするとその家はいずれ崩壊する運命にあったからだ。
であるから、ツマドイはたいてい一過性のものだった。
すると、各女の家で子供が生まれても父親は不在ということになる。しかし女たちはそれを一向に気に留めなかったとおもわれる。なぜなら、生まれた子どもはその家の女たちが共同で育てたからだ。しかも女たちは採集経済の担い手であり、生産の主役だったから、父親がいなくても食ううえでは何も問題はなかった。
このように縄文時代にあっては、女は生産の中核として家と里とを管理した。そのリーダーである女家長は、戸女(とめ)、戸辺(とべ)、戸自(とじ)などといわれ一家に君臨していた。『古事記』や『日本書紀』(以下『記・紀』という。)にはそのような女家長の話がたくさん出てくる。
また父親がいなかったから、家々は代々の女、つまり母たちによって引きつがれていった。こうして縄文時代に母系制なるものが成立したのである。
すると、いったい男はどうしたのか? ツマドイのあと男たちは何をしていたのだろう? 
かれらは、目的ごとに男どうしの集団つまりバンドを組んで、イノシシ狩りや漁などに熱中したとおもわれる。旧石器時代のグレート・ハンティングの夢を追い続けたのだろう。『記・紀』には、そういう話がいろいろ出てくるのである。
以上のような縄文時代の伝統は、ついこのあいだまでの飛騨の白川村に色濃く残されていたのだった(拙稿「白川村にみる縄文の風景」雑誌『環』二〇一三年夏号)。興味ある人は白川村のことをよく見ていただきたい

4 カヨミ

このように女が主役となった大家族においては、一家の女家長がすべてを取り仕切った。
その一番大切なものは「自然の暦」を知ることだった。自然の暦を知らないと季節の変化の激しい日本においては動植物の状況がわからなくなり、食料の採集もままならない。
そこで女家長は、毎朝、日読み(かよみ)なるものをおこなった、とおもわれる。
カヨミの日は、単数ではヒと読むが、複数では二日(ふつか)、三日(みっか)、四日(よっか)、十日(とおか)、二十日(はつか)、三十日(みそか)などのようにカと発音する。つまりカヨミは複数の日を読むことである。
具体的にいうと、毎朝、太陽の昇る位置を、家の庭から見える山並みや森の形や木々の姿などから確認するのだ。そうして片手を突き出して小指の先を見ると、太陽は毎日その爪幅ほども動く。十日もすると小指と薬指のあいだほども動くのを知ることができる。
そこでその十日を旬としたのである。日本では十日ごとに花も虫も鳥も魚もほとんど入れ替るからだ。
すると、一年三百六十五日はほぼ三十六旬ということになる。それは三十六の「自然の舞台」である。鳥、獣、花、草木、虫、魚などそれぞれ登場する生物がみな入れ替るからだ。しかし三十六ではあまり多すぎて数えにくいので、二至二分、すなわち冬至と夏至、春分と秋分をその間に設けると、それぞれの間が九つの旬ということになり、これは数えやすい。
こうして日本には、一年という自然の区切りのほかに「二至二分」という区切りが設けられ、それを祭る文化というものが生まれたのである。それもこれも、旬という自然の舞台の転換を数えやすくするためだったのだ。そしてそういう自然を細かく区切る文化をもつ国は、世界でも日本だけだろう。
もっとも、それら二至二分は普通には仏教の祭と見られているが、じつは本来の仏教にそういう祭はない。なぜなら、仏教の発祥の地であるインドは常夏といっていい国だからだ。したがってそれらは仏教とは関係がなく、強いていえば日本仏教が縄文以来の伝統を受け継いだもの、あるいは今日も縄文文化の名残が示されているものといっていい。縄文の遺跡に、二至二分を観測したとおもわれるものが多いからだ。
こうして縄文人は、日々、冬至や夏至、春分や秋分からの日数を正確に読み取った。一年三十六旬を、たとえ途中で日数を間違えたとしても二至二分でアジャストできたのである。そして一年の自然の「正確な暦」というものを知り、その自然の暦にしたがって、旬ごとの食料採集に励んで安定な食料生産を可能にしたのだった。
のちシナから、元嘉歴などの具注暦がはいってきたときも(BC四四五)、暦の訓にカヨミを訛ったコヨミという発音があてられ今日にいたっている。その一事を見ても、カヨミが古い日本の暦のことだったことがわかるのである。

5 オナリ神

そういった自然の推移を読み取る縄文人の伝統は、里の食料生産だけではなく、海の上にも拡張された。女家長は月(つく)読みをもおこなって潮の干満を察知し、男たちの漁に貢献したのである。
そういうことを知る話がある。ついこのあいだまで縄文風俗を色濃く残していた沖縄だ。沖縄では、生まれたときから女はエケリ、つまり兄弟たちの守り神とされた。それをオナリ神という。そしてエケリが沖に出たとき、オナリはいつも岸にいて漁に熱中するエケリを助けた。天候の異変があったとき、海で漁をするエケリに知らせたのである。
そのために、エケリが海に出るときに舟に鳥を乗せた。海が荒れて岸が見えなくなったとき、鳥を放てば鳥は帰趨本能で陸地に向かうことを知っていたからだ。また天候が悪化したとき、陸地で鐘を鳴らしたり、白いヒレをもって走ったり、あるいは火を焚いたりして男たちに危険を知らせた。
それほど沖縄の海は危うかったため、女たちは男たちの守り神にならざるをえなかったのである。そしてそういうことは、大なり小なり本土においてもいえたことなのである。
さらに採集や漁業だけではない。農業時代にはいって、つまり弥生時代になり生産の主力が男たちに移っても、女たちは雨乞いなどをおこなって男たちを助けた。それは幼い時から地域の花鳥風月を始めとする自然の変化を全身で受け止めてきた女たちにとって、容易なことだったからだ。
時代は下るが、そのような伝統は江戸時代に「観天望気」(拙著『一万年の天皇』)という形で土地々々の女たちに引きつがれた。つまり土地の女たちは、たいていその土地の自然の移り変わりや明日の天気などを言い当てることができたのである。
ために女たちは、しばしば巫女、ノロ、イタコなどとして尊崇されたのだった。
以上のように、この国では自然の息吹を感じ取る「日和見」が女の大切な仕事だったが、それもこれもその原点は太陽を見続けてきた縄文の女たちのカヨミにあった、といえるだろう。

6 マナ

そのように自然を大切にしてきた縄文人は、人工的なものをときに敬遠する風があった。つまり自然の力の底にはマナつまりパワーがあり、逆に人工的な栽培物や飼育物には「そういったパワーがない」と見たのである。
であるから、牛・豚・鶏などのような飼育動物を食べなかった。「人間に飼われるような動物にはマナがない」とおもったからだろう。そういう飼育動物の肉を拒否する風は、江戸末期までこの国の社会に引きつがれた。
またそういうマナを尊重する風は器物の生産にも及んだ。土器などの生産は女たちの仕事とされたが、壊れやすい土器を割れないようにするために土器の表面にパワーのある縄などを刻印したからである。
縄文土器の出現だ。
さらに女たちは、最古の母親を元母(がんぼ)とし、それを土で象ってそれぞれの家の守り神とした。
土偶である。
それは元気印の大本であり、マナの大元締めといってもいい。
そういうことから、土器・土偶・石棒などの縄文人の生産物に見られるものはかならずしも美ではなく、強いていえばマナだったといえる。つまり元気印であり、パワーであり、力なのだ。それを見た瞬間、肌が泡立つような靈力をもつものである。
かつて岡本太郎が「縄文は爆発だ」といったのもむべなるかなだ。
日本の芸術の原点がここにある、といっていいだろう。
むすび
 そういう縄文文化は現代日本にも生きている。
たとえば正月のお節はほとんど縄文料理である。土鍋を始めとする鍋料理も縄文食である。旬の料理は縄文料理といいかえてもいいものだ。
また日本の着物はハレの着物である。大なり小なり一枚の絵、つまり「絵羽模様」である。それは着る人の気分を高揚させる、気持ちをフリーにさせる(川久保玲)、人間精神を高める(三宅一生)などといわれる。
さらに昔の家にはかならず大黒柱があった。竃は神のパワーとされた。そのうえ神棚や仏壇があった。ほかに床の間や座敷、縁側や庭が神迎えの場とされた。いまでも日本のアパートやマンションにはかならずベランダがある。意識するとしないとにかかわらず、そこは神迎えの場なのである。その証拠に、それがないアパートやマンションなどには日本人は住めないのだ。
ほかに漆は縄文人の発明である。草木虫魚は神の使いである。季節の信号でもある。歌や俳句、童謡などに数多くうたわれてきた。一方、日本の神社はパワーの根源といっていい。わたしはそれを展覧会に出展したことがある。(拙作「生国魂神社の再開発」)
以上のことだけでなく、いまなおたくさんの縄文文化が地方に生きている。岩手県には「鵜鳥神楽」や「黒森神楽」などの民俗芸能が千カ所以上もある。アイヌのカムイユカルではいまも動物たちが欣喜雀躍して踊っている。自然と人間とが一体になっている。
じっさい、日本の伝統的絵画にはパワーがある。平安時代の「鳥獣戯画」、北斎の「赤富士」、俵屋宗達の「風神・雷神」、横山大観の「富士山」などにはみな力がある。
もっとも、そういったことはかならずしも日本だけではないだろう。
西欧でもミロの「ヴィーナス」や、ミケランジェロの「ピエタ」や、ゴッホの「ひまわり」や、ピカソの「泣く女」などにはみなパワーすなわち力がある。芸術は美ではなく力である、といっても世界に通じるだろう。
すると、わたしたちも「現代の力」をつくろうではないか。思想的大作だけでなく「力ある小品」もつくろう。芸術家であるだけでなく「絵描き」にもなろう。そして力ある作品を世に出そう!
今年は「縄文、自然、力」といったテーマで世に送りだそうではないか?


D論  我々はなぜ寺で展覧会をやるか


◆寺で展覧会をやる意義は「日本の建築空間」であることに尽きる。

それには、
1 木の建築であること
2 庭に囲まれていること
3 畳が敷かれていること
の三つの意味がある。

◆木の建築であること

日本の美術館はたいていコンクリート建築で、出来たときは最高だが後はだんだん古びてゆき、その耐用年数は七十年とされる。時間が立つに従ってコンクリートのアルカリ性がなくなり、鉄が酸化し、ために鉄筋が錆びていって強度を喪失するからだ。
一方、寺は木の建築で、その中の空間は柱も壁も時が立つほど味わいが出てくる。しかも耐用年数は人の管理によるので別に決まっていない。いわば人間の愛情次第である。
つまり美術館は無機的世界いわば「死んだ世界」であるのに、寺は有機的世界すなわち「生きた世界」である。とすると、そこに置かれた作品は、たとえば「山門を出ずれば日本ぞ茶摘み歌」(菊舎尼)のように生き生きと生活するものになる可能性をもつ。

◆庭に囲まれていること

一般に美術館建築は西洋建築風に厚い壁に囲まれて窓がなく、すべて人工照明に頼る。
しかし日本の寺は人工照明のほかに、囲まれた寺の庭から障子を通して自然光が入る。さらに自然の気配、雨や風や木の葉の散る音、鳥の声、ときには子供の歓声や自動車の騒音なども聞こえてくる。木の香り、花の香の匂ってくることさえある。
ために一般美術館のなかの美術作品は「缶詰のオイルサーディン」のようにアトリエで作られたとき味がすべて決まってしまうのに、寺に置かれた作品はいわば「皿の上の姿形ある肴」で、ときに作品と廻りの環境とが鼓動し合って私たちに新鮮な驚きを与える。「木枯しや目ざしに残る海の色」(芥川龍之介)もそれを表現したものとおもわれる。

◆畳が敷かれていること

 美術館はどこも西洋建築風に土足で廻るため、いわば「見て歩くギャラリー」である。これにたいし日本建築である寺空間は、靴を抜いで床の上にあがるから気に入ったところで「坐れるギャラリー」である。もちろん美術館もときに椅子が置かれるがそれは休むためのものに過ぎず、寺は畳だからその気になればどこにでも坐ることができる。
私は展覧会に行ったとき、全体を見た後で、いつもその中の気に入った作品の前に座ってお茶など飲みながらしばしの時間を過ごしたいと思う。美術館ではそういうことは難しいが、寺ではそれができる。一つの作品の前に坐って日の移り変わりを見、鳥の鳴き声などを聴きながら、作品のそこはかとない反応を見る。いわば作品と語り合う。「閑けさや岩に染入る蝉の声」(芭蕉)もそういったところから生まれたものだろう。

以上