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アマテラス

〈アマテラス――縄文魂を考える〉

1 不思議な「日本文化」

 
この本は「アマテラスオオミカミ(天照大神)」という日本の神さまを取りだして、歴史学、神話学、考古学、民俗学、人類学、さらには建築学などの視点から総合的に考え、さらにそれをわかりやすくするために物語風にまとめてみたものです。
では、いまなぜ「アマテラス」なのでしょうか?
わたしはそれを「日本の未来を知るため」とおもっています。
実際かんがえてみると、明治以来この約百五十年のあいだに日本の文明は大いに進歩しましたが、反面、日本は大きな戦争を四回も経験いたしました。そしてその結果、危うく国が滅びる寸前にまで立ちいたったのでした。
するとこの先もどんなことが起きるかわからない。ふたたび危急存亡の事態に立ちいたるかもしれない。とすると、日本人は日本の未来のことをよくよく考えておかなければならないでしょう。
その日本の未来を考えるばあい、まずは「われわれ日本人とはいったい何者か?」ということを知らなくてはならないとおもいます。というのも、この日本人というものは、わたしが考えるところではなかなか厄介だからです。日本人であるわたしたち自身も「じつはよく分かっていないのではないか」とおもわれるところが多いのです。
というのも、日本人が日常浸っている「日本文化」というものが世界の文化一般と比べてみてあまりにも変わっている。卑近な例をあげると、世界で生魚を好んで食べる国はあまりありませんが、日本人は生魚だけでなく生水も生卵も、平気で食べたり飲んだりする。
じっさい、そんな例を挙げればきりがありません。老いも若きも「朝パン、昼カレーライスまたはラーメン、夜ゴハン」といった、考えてみれば「洋・印または中・和の混食」を摂っていても誰も不思議におもわない。逆に一日中「洋」や「印」「中」だったら大方の日本人はやるせないでしょう。しかし世界の国ではたいてい朝から晩まで、そして多分一年中、西洋人は「洋食」を食べ、インド人は「インド料理」を、中国人は「中華料理」を食べているのです。
そのほかにもいろいろのことがあります。たとえば日本人は明治いらい欧米化したとはいいながら、一方ではマンガ、パチンコ、ペット、競輪、漫才、落語、風呂、晩酌、カラオケ、チャンバラ劇などといったものを好み、女子会・同窓会・温泉旅行・海外旅行などに夢中です。
というと「ペットは西欧にもある」といわれるでしょう。しかしペットが死んだら日本人は多くお墓を作り、最近ではお坊さんに読経してもらったりする。じっさい、日本で一番有名な銅像は東京の渋谷駅前にあるハチ公です。そんなペットが銅像になる国は世界にないといっていいでしょう。それもその昔、縄文人が犬を溺愛した伝統を引きつぐものかもしれませんが、ともかく動物と人間のあいだに線を引かない日本文化とでもいうべきものを感じます。
もっとも、そういう伝統はかならずしもいいことづくめばかりではありません。一方では「オレオレ詐欺」などといった不思議なものがいつまでたってもなくならない。
もちろん、そういう変わった例を挙げれば世界の国にもいろいろのことがあるでしょう。何も日本だけではない。
ところがじつはここに一つ、真剣に考えさせられる問題があります。というのはこういうことです。
ふつう戦争に負けると、その国のリーダーは退くか、追放されるか、または殺されるかするものですが、第二次世界大戦で日本が負けたとき、日本の国の精神的・物質的最高指導者で、戦争中にたびたび御前会議を主宰して事を決した天皇が、敗戦当時いかなる理由があったにもせよ、退位も、追放も、処刑もされず、いままでどおりにその地位に留まったことです。
それは日本だけでなく、戦勝国もまた世界中も認めたことでした。
その間、唯一変わったことといえば、それまで神さまとおもわれていた天皇が「人間宣言」をされたことぐらいです。
そんな例は世界の戦争史上、初めてのことだったでしょう。
そしてそんな変わった日本の国のあり方の理由を、世界中の誰も、どこの国も、また後々になってもほとんど詮索されない。
わたしは常々、そこに「日本文化の大きな不思議さの根源がある」とおもっています。
そういった日本文化の特殊性というか、不思議さといったものを真剣に考えないかぎり、これからの日本の在り方も見えてこないのではないか、とわたしにはおもわれるのです。

アマテラスという謎

そこでそのような日本文化の不思議さについて考えるのですが、それにはいろいろの意見があるでしょうけれど、一つ具体的な例として「アマテラス」という問題をわたしは提起したいとおもいます。「日本人を、あるいは日本文化を知るにはアマテラスを知らなくてはならないのではないか?」と考えるからです。
その理由はこれからおいおいに述べてゆきますが、ただここで一口にいうと、アマテラスもまた謎の多い存在だからです。
じっさい、わたしたちはアマテラスというと何を思いだすでしょうか?
日本人はみなアマテラスを知っています。少なくとも誰でもその名前は知っています。
しかし、では「どういう人だったか?」と聞かれると、その答えはまちまちになるでしょう。「女の神さま」、「高天原(たかまがはら)に住んでいた」、「伊勢神宮に祀られている」などなどです。
たしかに、それらの答えは間違いではない。
しかし、重ねて「アマテラスは何をしたのか?」と問われると、その回答もまたいろいろになるのではないでしょうか?
たとえば「天の岩屋に隠れて世の中が真っ暗になった」、「天皇家の祖先である」、「玉三郎が舞台で演じている」などといったことなどです。
このようにみんなアマテラスの名前は知っていても、その実像となるとかならずしもはっきりしたイメージが浮かんでくるとは限らない。
しかし、じつはそういったことはわたしたち庶民に限らないのです。日本の古代史の学者のあいだでも、アマテラスをめぐっての意見はまちまちだからです。
たとえば「アマテラスは蛇とおもわれていた(筑紫申真『アマテラスの誕生』)」、「伊勢の地方紳にすぎない(直木孝二郎『日本古代の氏族と天皇』)」、「天武天皇の創作物(溝口睦子『アマテラスの誕生』)」などだからです。
そこには、ふつう語られるアマテラス像でないものがいろいろありますが、それは学者だから仕方がないとしても、その答えが学者によってまちまちなのにはわたしたちはびっくりします。しかも個々の学者のあいだで意見が違うだけではなく、古代史学界全体としてもその答えは明確に示されていない。
ことほどさようにアマテラスは日本人にとって謎に満ちた存在なのです。
しかしその謎を解いてゆくと、そこに日本文化の本質が示されるのではないか、とわたしは考えています。

女神か それとも皇祖神か

そこで思いだされるのは、まず「アマテラスは女神だ」ということです。
しかし、世界にはインドや古代ギリシャのように女神もたくさん存在していて、女神はかならずしも日本の専売特許ではない。
ただアマテラスは、単に女神というだけでなく日本神話では高天原の最高神とされています。また庶民の間でも八百万といわれるたくさんの日本の神さまのなかの最高の神さまと見られています。そんな最高位の神さまが女神である国は世界にあまり例がない、といっていいでしょう。
ところがよく考えてみると、大地に根ざして生きた原始社会では、始めどこも地母神といったものが存在していたようなのです。たとえば紀元前八世紀に古代ギリシャの詩人ヘシオドスは、
“最初にカオス(宇宙)が生じた。
ついで胸広きガイア(大地)……。”

ガイアは最初に、わが身と等しい広さの星きらめくウラノス(天)を生んだ。
ヘシオドス『テオゴニア』と歌います。つまり「宇宙というカオスの次に地母神ガイアが生まれて、そのガイアがウラノス、つまり天である男を生んだ」というのです。とすると、アマテラスという女神を最高神とする日本は決して珍しい国ではない。そのむかし多くの国では「天父」の前に「地母」があったというからです。日本はたまたま、そういう原初の事情がのちのちまでも生きていたにすぎないのでしょう。
そこで第二の問題に移ります。それはアマテラスが一般に皇祖神とかんがえられていることです。つまり天皇家の祖先ということです。
ところが、それは時代によってかならずしもそうではない。
アマテラスを皇祖神とする見方は『古事記』や『日本書紀』(以下これを『記』『紀』と記します。)とりわけ『古事記』に強く示されます。
ところが実際には、『記』『紀』の原本と見られる『帝紀』や『旧辞』がつくられたとされる継体あるいは欽明大王(天智天皇以前は大王とする。在六世紀)のときから天武天皇までの時代(七世紀末)はアマテラスを皇祖神と見ていたようですが、もっともこれについても歴史学者によっては異論があるようですが、それ以後となると必ずしもそうではない。たとえばつい最近のことですが、明治から現在に至る時代においても宮中で皇祖神として祀られていたのは後にのべる高木神であってアマテラスではない。
つまりアマテラスは皇祖神かどうかはっきりしないのです。歴史書によっては皇祖神とされたりされなかったりする。時代によってもいま述べたようにまちまちなのです。
そこにもアマテラスをめぐる不思議さがある、といっていいでしょう。それはどうじに日本文化の不思議さにも通じるようにわたしにはおもわれるのです。

太陽神か

さて第三に、アマテラスが太陽神とされることです。
それについてはアマテラス自身が太陽である、とか、そうではなく太陽を祭る巫女であるとかいったように、学者のあいだでも意見が分かれております。しかし、太陽と密接な関係があることだけは間違いない。
とすると、日本文化の不思議さを知るには、アマテラスと太陽との関係、さらには日本人と太陽との関係を考えていく必要がある、とおもわるのです。そしてわたしは、そのことが日本文化の謎を解く鍵ではないか、とおもっています。
ところが、太陽を大切にする国は何も日本だけではない。
たとえば太陽を神とする国は世界にいっぱいあります。有名なのは古代エジプトです。そこでは国王が太陽の化身とされたりもしました。
確かに今日の科学からみても、太陽は全地球生物の生命エネルギーの根源です。それが神とされるのも不思議ではない。
にもかかわらず、たとえば今日の世界の国々の国旗を見ると、太陽をモチーフにしている国はそう多くはない。しかも天体に限っていうと、むしろ星や月のほうが多いぐらいです。じっさい酷暑の国々では、日常、太陽を忌避しているところさえある。
また、温帯や寒帯の国でもかならずしも太陽を有難がっているとは限らない。さらに太陽を感謝している国々においても、一般的にはその光や熱を礼賛するものであってそれ以上のものではない。
ところがこれからおいおい述べてゆきますが、日本人は太陽の光や熱を有難がるだけのものではないようなのです。それ以上のものがある。
それをこれから考えたいとおもいます。


2 日本人はなぜ太陽を拝むか

 

日本人は太陽を拝む

そこで、日本人と太陽の関係です。
まず、日本人はしばしば太陽を拝みます。
昔、お正月にはどこの家でも一家が総出で庭に出て一年の家族の無事息災を願い、初日の出を拝んだものでした。とりわけ農家では一年のお天気の無事を心配してそれこそ真剣なものがありました。また漁師たちはいつも暗いうちに海に出ますが、夜が明けて太陽が登るのを見るとみな漁の手を休めて太陽を拝みました。さらに山では樵や旅行者たちが道中の安全を願ってご来光を拝んだものでした。
そういういわば太陽礼拝も、お百姓さんにとっては穀物の稔り、とりわけイネの収穫に太陽光線が欠かせなかったからでしょう。また漁師や樵にとっても、海や山がお天気であることが絶対の条件でした。曇ったり雨が降ったりすると、漁師は陸地を、樵や旅行者たちは帰路を見失い、それこそ一巻の終わりにもなりかねません。
そこで一般の家庭でも、そういうお百姓さんや漁師、樵たちの苦労を見習って太陽を拝んだとおもわれます。ところがそこには、後に述べるようにもっと深い歴史が隠されていたのです。
がしかし今はそれをさておいて、そういう日本人の太陽礼拝はじつは単に太陽を拝むことだけではない、ということを申しあげたい。
たとえば日本人は昔から「冬は暖かいけれども夏は暑い」という、いわば諸刃の剣のようなメリットとディメリットをもつ「南向きの家」を好んできました。日本の夏はとても蒸し暑く過ごしにくいのにもかかわらず、南向きの家を良しとしてきたのです。
ところが、そういったことは世界の家々ではかならずしも常識ではありません。たとえばヨーロッパでは一般に夏でも冬でも太陽光線が弱いので、家はどっちを向いていてもいいのです。アラブやインドにいたっては南向きの家は逆に嫌われます。
とすると日本人は、たんに光や熱をもたらすという太陽を有難がるだけでなく、そこには一種「太陽信仰」とでもいうべきものがあったようにおもわれるのです。
その証拠といっていいかどうかわかりませんが、日本の国旗は、明治以来、白地に赤のシンプルな「日の丸」とされてきたのでした。

天皇も太陽を拝む

ところでこのように太陽を好む、あるいは拝むという行為は、じつは一般庶民だけではありませんでした。この国の天皇もまた太陽を遥拝してこられたからです。
天皇はいまも正月元旦の早朝に、ただ一人宮中の南庭に出て、東方の太陽を始めとする「四方拝」をおこなわれる。その行為は日本人一般の太陽崇拝となんら変わるところがありません。
それだけでなく、宮中においては一年中、毎朝、侍従が宮中三殿を拝む「毎朝御代拝」というものがおこなわれています。つまり天皇の代参として侍従が拝む対象のなかに太陽もはいっているのです。
とすると、それはほんらい天皇が毎朝行うべきものであったことがわかります。いまそれは侍従が代行しているにすぎない。
というのも、昔、天皇が太陽を遥拝していたことを示す話がシナの国の記録に残されているからです。
隋の高祖の文帝二十年、西暦でいうと紀元六百年、つまり六世紀の最後の年のことですが日本は推古女王の時代でした。そのとき女王の使者が長安にいって文帝に拝謁し、文帝から「倭の王は何をしているのか?」との質問にたいして次のように答えているのです。

“倭王は天をもって兄とし日をもって弟としています。天である倭王は、ま
だ太陽が上がらない夜明けに政庁に出て胡坐して政務を聞き、太陽が上っ
たら「あとは弟の太陽にまかせる」といって引き下がってしまいます。
(『隋書倭国伝』)”

これを聞いた文帝は「それはまったく理屈に合わないことだ」といって不満を漏らしたそうです。
しかしこれは日本の国の天皇、正確にいうとまだ天皇という称号が出来ていませんでしたから大王(おおきみ)にとっては当たり前の行為でした。
たとえば、敏達大王というと推古女王よりさらに古く、西暦紀元五百七十年ごろの人ですが、はじめのうち即位した百済大井宮におられましたが、のち他田(おさだ)幸玉宮に遷られました。その理由は、その近くに日祀部(ひまつりべ)を設けられたからです。そのヒマツリベでおこなわれた仕事というのは「日(か)知り」あるいは「日(か)読み」といわれ「日を知ること」あるいは「日を読むこと」でした。
つまり太陽観測だったのです。
その観測場所のヒマツリベは、桜井市太田の他田坐天照御魂(おさだにますあまてるみたま)神社とされて、いまも残っています(故地はその少し東にある辻・太田の境の他田とされる。)。
では「オオキミがなぜここにヒマツリベを設けたのか?」というと、その場所から冬至のときに、大和の聖山である三輪山の頂上から太陽の昇るのがバッチリ見えたからでしょう。それは千四百年後の今日も明瞭に見ることができる。太陽の運行つまり地球の周回運動は、何億年も変わらないからです。
とすると、その場所は今も昔も三輪山の太陽を基点とする冬至の観測地点だったことがわかります。
さらにオオキミはその翌年に、みずからの皇女を斎宮として菟道(うじ)アマテラスの御魂を祀る伊勢に派遣しました。すると、このオオキミの太陽観測行為は、じつはアマテラスにも通じる行為だった、といえるでしょう。
アマテラスについてはこれから詳しく述べてゆきますが、そういう行為が伝統となって、先にも触れたオオキミあるいは天皇、今日では侍従が「毎早朝、太陽を拝む」という行為を続けていることがわかるのです。
そのためでしょう。平安時代の天皇の日常の御座所であり評定所であった清涼殿は東を向いて建てられました。日本の宮中の殿舎はシナ式にすべて南面を原則としてきたのに、唯一、天皇の日常の御座所だけは東面していたのです。
ここにも日本文化というものがかならずしもシナ文化そのままではなく、必要があるときには従来の文化を重ねたことがわかるでしょう。

「日を読む」

では「オオキミや天皇はなぜ朝の太陽を拝んだのですか? 天皇が太陽を拝んでいったいどうする、というのでしょう?」
じつは宮中に旬儀ということがありました。
旬はほんらい十日のことをさしますが、天皇はその十日をなぞって、毎月一日、十一日、二十一日、それに十六日に紫宸殿に出御し、政務を見たあと臣下に膳を供して俸禄を授けたのです。それを旬儀といいました。天武天皇のときに始まって奈良時代に盛んになり、平安時代前期ごろまでおこなわれました。しかし、のちに四月一日と十月一日の年二回だけに簡略化されました。
それはともかく、その旬儀についてですが、天皇が臣下に俸禄を与えるのはいいとしてもなぜそれが十日ごとにおこなわれたのか? 十日つまり旬というものにいったいどういう意味があったというのでしょう?
それは「旬」が日本の暦だったからです。
日本語の暦の語源はカヨミといわれます。そのことは、たいていの辞書の暦の字の語源の項に記されています。そのカヨミが、今日、コヨミに訛ったのです。
そしてそのカヨミが、じつは「日読み(かよみ)」だった。
日という字は単数のときはヒと読みますが、複数となると二日、三日、四日、十日、二十日、三十日(みそか)などのようにカと読みます。したがって日読みはカヨミで、のち漢字の暦という字が登場したときにコヨミに訛ってしまったのです。つまりカヨミとは日本の古い暦をしめす言葉なのでした。
その日本の古い暦であるカヨミはおおよそ十日を一つの単位とし、それを旬といたしました。というのも日本は季節の移り変わりが激しく、草でも花でも、木の実でも魚でも、だいたい十日ぐらいを盛りとしたからです。そこで人々は十日つまり旬ごとに自然の盛りの移り変わりを見、それを生活の一つの区切りといたしました。それが日本の暦なのです。つまり日本の暦は、春夏秋冬あるいは一年十二ヶ月といった大まかな区分ではなく、十日ごとに展開される自然の動植物の状況を見ることに主眼がおかれていたのです。
しかしその旬を知るには、新聞もテレビもない時代にあっては太陽の運行によるしかありませんでした。つまり「日読み(かよみ)」という言葉どおり、日本の暦は太陽を見ることから始まったのでした。
その太陽を見る行為を具体的にいうと、特定の地点から東を向いて、太陽が一年のうちでいちばん南の山の端から出る冬至の日と、いちばん北の山の端から出る夏至の日とを知り、その間が半年、だいたい百八十三日あることを知ってそれを十八旬としたのです。さらに冬至の日と次の冬至の日の間を三十六旬といたしました。それが今日の一年です。
そこで奈良盆地においては、冬至のときに三輪山の山頂から太陽が昇るのが観測できる場所にカヨミする日祀部が設けられたのでした。その観測によって冬至の日が定まり、一年の暦が始まったのです。つまり冬至を基点として一年を三十六旬とする暦がつくられた、といっていいでしょう。
そういう暦を定める行為が、じつは天皇の仕事だったことを敏達大王や推古女王の「太陽観測行為」が示しているのです。つまり天皇は旬を知り、それを臣下を通じて人民に知らせ、人民にいろいろの動植物の盛りのとき、つまり葉や茎の茂るとき、実や根の熟れるとき、魚や獣などの来襲時期などを知らせ、かれらの採集生活を助けたのでした。
ところがそういったカヨミは、オオキミや天皇が最初に始めたものではありませんでした。じつはもっと古くから行なわれていたようなのです。というのも、敏達大王の日祀部すなわち他田坐天照御魂神社のほかに、大和にはもう一つ天照御魂神社があるからです。
天照御魂神社というのは、がんらいがアマ族の神を祭った斎場とみられ西日本各地にある古社ですが、その天照御魂神社が大和にはもう一つあるのです。それは今日の田原本町の鏡作坐天照御魂(かがみつくりにますあまてるみたま)神社です。もっともそれは、田原本町の八尾と石見の二カ所の地先にありますが、石見にあるほうからは、冬至に三輪山から太陽の昇るのが正確に観測されます。
じつはこの田原本というところは、神武大王が大和に来る以前に大和盆地を支配していた、とみられる人々が住んでいたところです。その証拠に、今日、弥生時代のほぼ全期にわたって活動した人々の残した「唐古・鍵」とよばれる遺跡が存在しています。そこからは大量の出土品が出ていて今も現地で公開され、なかなか見応えがあります。
その田原本にこのような古い神社があり、そこから冬至に三輪山から昇る太陽が拝されるということは、太陽観測であるカヨミがすでに弥生時代にも行われていたことを示すものでしょう。
じっさい地図の上で当ってみると、西北から東南にかけて、この田原本の天照御魂神社と先の他田の天照御魂神社と三輪山山頂とが見事に一直線に並んでいることがわかります。つまり、それは間違いなく「冬至に太陽が三輪山から昇るのを臨むライン」なのです。
そしてそのライン上にある他田の天照御魂神社が六世紀ごろにつくられたのにたいして、田原本の天照御魂神社はそれよりもっと古く、紀元前につくられたもののようである。というのも、唐古・鍵遺跡は紀元前六世紀ごろから始まる、とみられるからです。
つまり旬を知るための太陽観測行為は、どうやら弥生時代からおこなわれていたようなのでした。

「日読み」は日本の暦か

ところで民俗学者の柳田国男は、このような太陽観測行為が「じつは単なる太陽崇拝ではなく、人々の生活に指針をあたえるものとして公の機関で取り上げられたものだ」ということをつとに指摘しています。

“武蔵の国の日奉(ひまつり)氏、敏達天皇の……日祀部、延喜式の神名帳に見
えて居る陸奥行方(なめかた)郡の日祭神社の如きは、何れも天体の日を祭ったものでは無くして、時間の日を祝する任務をもって居た為に、公の機関
としての必要を認められたものだろう。
――毛坊主考”

つまりこれら一連のヒマツリ行為は「天体の日を祭ったものではなく、時間の日を祝する任務をもっていた。たんなる太陽の祭ではなく、じつは暦だった」というのです。
じっさい、そういったことを主張している学者がほかにもいるのです。

“暦の起源とする「日数み(ヨミ)」の術をわきまえた人(中国で日知り)によって、月日のめぐり、気節のかわり日が考えられ、生産のすべての方針が立てられた。暦法が行なわれても前まえの印象から、新暦に対立して、「日よみ」の術が行われており、中国同様に、むかし日よみで民を指導した者の末が、国ぐにで君となり、旧来の伝承は、その部下の一つの職業団体の行事としてうけ継がれた(石上堅『日本民族語大辞典』)。”

つまりカシリやカヨミはシナでも日本でも行なわれていた、というのですから、先の隋の文帝は人民のそういう暦を知らなかったのでしょう。
そして日本で天皇のことを、しばしばヒジリノミカドとよぶヒジリあるいはヒシリはこの「日知り」だったことがわかるのです。
その暦が、旬つまり十日ごとに構成されている。先にのべたように日本では十日ごとに自然の風物がいっせいに変わるからです。
そのばあいカヨミの起点となる冬至は一日のうちで太陽がいちばん短く照る日であり、逆に夏至はいちばん長く照る日です。この冬至と夏至の日から気温が日を追って暖かくなり、また逆に涼しくなってゆきます。
昔の日本人はそれらを起点として一年の暦を定めました。それは今日、多少、日はずれますが、冬至が正月にあたり夏至が盆にあたる、といっていいでしょう。昔の人はそれら正月や盆を記憶にとどめるために、冬至や夏至の祭をおこなったとおもわれます。そのためにもカヨミは欠かせなかったことでしょう。
ところがじつはそれだけではありません。正月や盆だけでなく、その中間の一日の昼の長さと夜の長さとが同じになる日、つまり春分や秋分も昔の人々がいろいろ配慮したことが、今日、知られます。それは日本人が春秋の彼岸といったものを大切にするからです。そのとき、わたしたちはこぞって先祖のお墓参りなどをいたします。
というと「それは仏教の行事だ」といわれるかもしれません。「仏教なら、それが日本に入ったのはずっと新しいことだろう」と。
しかし、じつは一年が常夏といってもいいようなインドや東南アジアの仏教にはそういったお彼岸のような休日がありません。庶民が正月や盆、さらには春秋の彼岸を祝うのは日本仏教だけの特殊現象といっていいのです。
それはいまのべたように「日本人は古くから一年の生活のあり方を秩序づけるために〈二至二分〉という天体現象を観測していたからだ」とみると納得のいくことです。つまりそれは日本に仏教が入る以前から知られていたことで、仏教とは直接関係がない。日本仏教がそれを取りいれたのは、そうしないと仏教が庶民のあいだに広がらなかったからでしょう。
ということからみてもわかるように、カヨミは太古からの日本列島の暦だったのです。
つまり日本人の太陽信仰というものはたんに太陽の光や熱に感謝するだけでなく、その根源には、太陽の運行を知ることによって一年の暦を知る、という大切なことがあったことです。
その結果、わたしが本書全体を通じて申しあげたいことですが、そういう暦に示されるように、日本人は古くから物事を科学的に処する人々であった、ということです。


3 日読みはいつから始まったか

 

縄文人は「旬」を知っていた

このようにカヨミという太陽観測行為は、古くは弥生時代にも行なわれていたようなのですが、とすると、それは弥生時代から始まったものなのでしょうか?
ところがここに、弥生時代よりさらに古い縄文時代にすでに行なわれていたことを示す証拠があります。それは、今日、日本各地で発見される縄文人の貝塚からの出土品です。
縄文の貝塚から人々が食べた食料の残滓が数多く発見されますが、それらはたいていきれいに整理されて埋められていて、そこからいろいろのことがわかります。
それによると、縄文人はじつに多種類の食料を摂取していました。たとえば獣が六十種類以上、魚が七十種類以上、貝が三百五十種類以上などといわれます。さらに山菜や野菜にいたってはその数が図り知れないほどなのです(拙著『縄文人に学ぶ』)。
そのなかに、たとえば貝は一年中海にいるのですが、茨城県の上高津貝塚でヤマトシジミやハマグリの貝の断面に残された成長線からその貝がいつ食べられたかを調べた研究者の報告によると「だいたい七十パーセント以上が四月から六月の時期に食べられた」そうです(小池裕子)。ということは、そのころの貝が一番脂の乗ったときで、今日でも潮干狩がおこなわれるのもたいていそのころなのです。
となると、貝にかんするかぎり縄文人は旬ということを知っていたとおもわれる。さらに貝にかぎらず、縄文人が旬ということを意識していたことを知り、それを「縄文カレンダー」というふうにまとめている学者もおられます(小林達夫『縄文人の文化力』)。
つまり縄文人が旬ということを知っていたのは、今日、考古学者の間でもほぼ定説になりつつあるようなのです。
とすると、縄文人がカヨミをしていた可能性は大いにあったことでしょう。

「平地の日時計」は日読みの場か

わたしがこのようにカヨミにこだわるのも、じつはふとした機縁からここ三十五年ほど、毎朝カヨミをしているからです。
わたしの住んでいるところは京都も田舎で、家の東側には道路の向こうに深い森があります。
その森の見えるところにわたしは家のベランダを作り、毎朝シャワーを浴びたあと上がってくる太陽を遥拝しているのですが、といっても一年を通じて太陽がよく見えるのは四、五日に一回ぐらいの割合しかありません。しかしそういうことを続けていたある日、太陽の上る光景に感激いたしました。
それはある秋の朝のことです。目の前の土手の横一線にウバメガシの緑叢があり、その上に北から南へ数本の落葉のコブシ、つづいてスダジイ、コジイ、イチイガシ、アラカシなどのいろいろの形の照葉樹がつづき、その奥にケヤキの群生、手前にツバキとヤマザクラがポツンと、さらに家の庭には一本のイチョウが高々と、といった木々があるなかで、いわばそれらの木々を供に見立てるかのように、突如、一番奥の杉林のあいだから真っ赤な太陽が上がったのです。それはとても感動的でした。
その感動が元になり、それから注意してみると、当たり前のことですが太陽の上る風景が毎週変わる。「これが同じ太陽か?」とおもわれるぐらいです。
しかし、そのつど違う風景を眺めていてわたしは突然ショックを受けた。つまり「太陽が東から昇る」というのはウソだとおもったからです。太陽は東から上がるのではなく、ときにコブシから、ときにスダジイから、ときにコジイから、ときにイチイガシから上がる。そしてそれぞれ違う風景を現出する。
そんなことを繰りかえし眺めていてわたしは「縄文人も、毎朝、太陽の昇るのを見ていたのではないか?」とおもうようになりました。というのも、縄文時代の遺跡に「日時計」といわれるものがあるからです。
有名なものに、いまから四千年前ごろにつくられた秋田県鹿角市の大湯環状列石があります。それは縄文人の家々からは離れた平地のなかに大きな石を一つ立てて、そこから放射状にたくさんの小石が広がっているものですが、そのストンサークルの下には死者が埋葬されていて一般には墓かとおもわれている。がしかし、たんなる墓ではなく、多くの考古学者が「太陽の観測所だろう」と見ているものです。
「なるほど、縄文人も毎朝、環状列石で太陽を観察していたのだろう。つまりカヨミをしていたのではないか?」と、わたしはおもいました。

家でトメが日読みをしたか

ところが、です。
そこまで考えてきて、ある日わたしはふと縄文時代の前期から後期にかけて、つまり今から七千年前から三千年前にかけての住居跡に環状集落といわれるものが多いことに気づきました。
それは真ん中に広場があって周囲をいくつもの建物がドーナッツ状に取り囲んでいるものです。そしてその広場には「日時計遺跡」とどうようにしばしば死者が埋葬されている。
しかし日時計遺跡は周辺の多くの集落の共同施設とおもわれるのですがこれは一軒の家です。わたしは縄文人の集落はよくいわれるように村あるいはムラではなく一個の家と考えているのですが(拙著『縄文人に学ぶ』)、その家の広場には放射状の石こそないものの、代わりに建物が環状に配されている。円形構造としては非常によく似ている。
そこでわたしは、自分のカヨミの経験から「安全で、しかも簡単にできる太陽観測なら、縄文の主婦も、毎朝、家の広場で行なっていたのではないか?」とおもうようになりました。
じっさい「夜明けに主婦が一人外にでるのが危険だ」といっても、環状集落の外側に柵などをもうければオオカミに襲われる心配はない。そのうえ縄文人はしばしば犬を飼っていたから安心だったといえるでしょう。
そうしてその広場に立てば、お天気であるかぎり廻りの山々や森の木々の間から立ち昇る太陽を見ることができる。つまり見ようとおもえば、太陽のショーを毎日でも見ることができるのです。
すると、そういう太陽観測によって縄文人もまた「旬日」を知ったのではないか。旬日の植物の生態を知って廻りの森で盛りを迎える草の芽を摘み、葉を千切り、根を掘り、木の実を拾いしただろう。旬日の動物の生態を知って森では木々の間に網をかけてキジを追い込み、野ではウサギやイノシシの通り道に罠を仕掛けて落し、川では段差をつくってヤマメやイワナを筌に受け、あるいは簗に追いみ、海ではワカメを刈り、貝を拾い、さらには壺を一晩沈めてタコを獲ったりした、とおもわれるのです。
それらは、旬日を知れば容易にできることばかりである。
しかもそういう行為は狩猟でも漁撈でもなくいわば採集です。弓矢や釣針、銛などを使わなくても、つまり過激な肉体労働に頼らなくても頭を働かせれば女性にだってできる。むしろ女性のほうが積極的にやったのではないか。そのために古くは戸女(とめ)といわれたその家の女主人も、先頭に立ってカヨミをしたのではないか、とわたしは考えるようになりました。
今日の人類学では、採集は狩猟・漁撈の下位にある生産方法とされ、いわば原始時代のものとみなされてあまり問題にされていませんが、その原始時代の生産方法によって、じつは縄文人は一万年も生き伸びてきたのでした。
とすると、採集という生産行為、さらにはそれを行なったであろう女性の労働というものももっと見直されてもいいでしょう。

縄文の里は女が取りしきった

そこで問題になるのは「縄文の女たちがどこで採集をしたか」ということです。
それを教えてくれるものは、縄文の家の間隔という問題です。というのは一般に縄文の家が単独にあるケースは少なく、一定の間隔をおいていくつかの家が繋がっているケースが多いからです。その距離もだいたい六~一〇キロメートルぐらいとみられる。
とすると、それぞれのテリトリーの範囲は、家の廻りの野や山や谷やあるいは海岸といったところを含めて半径三~五キロメートルぐらいだった、とおもわれます。それなら安全な日常生活圏です。そこでなら女性にだって日ごろ自由に行動できる。
そして一つの家の生活圏の先は、また隣の家の生活圏です。つまり縄文の家々の生活圏は互いに隣り合っている。その各々が女性の生活圏であれば、つまり女性の行動範囲の極限であれば互いに越境などをして問題を起こすこともないでしょう。
いわば「それらは共存しあっている」と見ることができるのです。
そういう縄文人の日常の生活圏を「里」と名づけますと、縄文人は「里の動物」だったといえる。里のなかの食料だけで自活できたのです。
しかもそれは女性にでもできた。むしろ「縄文の里は女性のものだった」とおもわれるのです。
その証拠といえるものに土偶の存在があります。
土偶は、今日、縄文遺跡から何十万点と発掘されて、土器と並んで縄文時代の文化を示すもっとも普遍的な遺物とされていますが、その土偶はみな女性像だからです。その土偶の意味については後述いたしますが、しかしこのように女性像がたくさん作られたということは、縄文時代が「女性の時代」であったことをおもわせます。
それを裏づけるものは、縄文時代の主たる生産活動であった採集という行為です。何度ものべるように、採集なら女性にだってできることだからです。
そこからわたしは、縄文の里は女性が取りしきった、と見ているのですが、そのことについてこれから述べてゆくことにいたします。


4 「花綵」の日本列島

 

「花綵」の日本列島の豊かさ

そこで改めて「縄文人とは何者か?」ということを考えてみたい。
日本列島はユーラシア大陸の東辺の太平洋上にあって、東北から西南にかけて三千キロメートルにわたる大小の島々からなっています。
明治に日本に来たドイツ人地質学者のG・ペーシェルは、それを「花綵(はなづな)列島」と名づけました。花綵とは、女の子が千切った野の花の茎を別の花の茎に差しこみ、それをまた別の花の茎に差し込みして作った花のネックレスです。つまり日本列島は「花のネックレスのように美しい島だ」とおもわれたのでした。
その美しい花綵列島も、かつての氷河時代には海面が低下し、関門海峡や間宮海峡などが陸化し、さらに大陸棚が露出しその上に拡がった大草原目ざし大陸からマンモス、ゾウ、オオツノジカなどといった大動物、つづいてそれら大動物を食料にして生きていた人間つまり旧石器人たちがやってきて勇壮なグレート・ハンティングを展開したことはよく知られています。
しかし、いまから一万五千年前ごろに地球が間氷期に入ると海面が上昇し、ために大陸棚は水没し、大草原を失ったこれら大動物たちは大陸に帰ることもできずに絶滅してしまいました。旧石器人もまたこれらの大動物と運命を共にしたとおもわれます。
ところが大草原が消滅したあとに、シベリア大陸から新たに森の小動物や木の実、魚や貝などを食料とする人たちがやってきました。そしてそれから以後も気象変動や大陸の動乱の度ごとに、北から南から多数の人々がこの花綵列島にやってきて、この一万五千年のあいだに多くの人種・民族の混血が行なわれました。そうして縄文人、わたしが考えている日本人の祖形というものができあがったとおもわれます。
このように縄文人はいわば混血民族なのですが、しかし大切なことは、大陸からやってきた人々がどのような人種・民族であっても、また大陸でどんな生活をしていたとしても、ひとたびこの花綵列島にやってくると、この列島の自然に従った生き方をせざるをえなかったことです。
というのも、今日、花綵列島と称される日本列島は、かつては人間にとっては非常に過酷な風土だったからです。
一万年前から千五百年前ぐらいにかけて、とりわけ地球気候が温暖化した六千年前から五千年前にかけては日本列島の平地帯はたいてい水面か湿地帯で、それら湿地帯には毒蛇・毒虫・各種病原菌などがうようよしていたようです。
そういう状況は明治以前の北海道の状況から知ることができます。たとえば丸木舟で北海道の原野を探検した松浦武四郎がそのことを生々しく記してくれています(たとえば『石狩日誌』)。ために人々はそれらの害虫や病原菌を避けて、海の近くの洪積台地、たいていは丘陵地か、あるいはうねうねした瘠せ尾根の先端のようなところに居を定めて、先にのべたように廻りの四季の小動物や植物などを採集して生きていかざるをえなかった、とおもわれます。
そこで、文化がまだ発達していなかった縄文時代の日本列島においては、大陸からたとえ何十人、何百人という氏族ないし部族集団がやってきたとしても、ひとたび上陸すると、みなその大集団を解体して十人か二十人ていどの家族集団に分かれ、それら瘠せ尾根などに取りつかざるをえなかったことでしょう。
ここでわたしは家族集団と申しましたが、通常、よく縄文の村ないしムラなどといわれます。しかし「アメリカ・インディアン」の古い社会を調べた報告などをみても、村などといった非血縁社会が現われるのは農業時代に入ってからで採集や狩猟・業郎時代にはあまりみられない(ヘンリー・モーガン、拙訳『アメリカ先住民のすまい』)。
さて瘠せ尾根などに取りついた人々の問題はこの日本列島の基盤です。それはいろいろの地層が重なり合っていて複雑であるだけでなく、地層を構成する岩というものがどこも極端に脆い。ためにいずこも植物の根がたやすく岩盤を割ってゆき、その結果、地震、火山、風雨のたびごとに山崩れや崖崩れなどを引き起こして地表を絶えず崩落させていったことでした(藤田和夫『日本列島砂山論』)。そのため下流の水面や湿地帯は少しずつ陸化していったのですが、それについてはまた後でのべます。
ここでの問題は、それら地層を微視的にみると多くの植物が岩を割って土壌を作り、その土壌がまたアミーバを始めとする多くの動植物に棲み処を提供し、四季の変化がそれら動植物の種類を豊富にし、さらにその交代を激しくし、とりわけ日本列島の高湿度がカビの活発な活動をうながし、ために動植物の死骸が瞬時に分解され、分解されて生まれた栄養素がまた多くの動植物を成長させるなどさまざまの動植物が栄枯盛衰を繰りかえしたことです。
それは、いわば四季によって状態が過変化する「温帯ジャングル」とでもいうべき世界だった、とおもわれます。
そこでそのような温帯ジャングルを生き抜くために、縄文人は自然にかんする十分な知識と情報を得なければならなかった。それを教えてくれるものがカヨミだった、とわたしは考えています。
縄文人はそのカヨミによって自分たちを取り巻く何百何千という植物や動物の旬つまり盛りを知り、美しいがしかし厳しいこの花綵列島を生き抜いてきたとおもわれるからです。
しかもその豊かさの中身はたんに「飢えない」ということだけではなかった。そのほかにもいろいろのことがあったのです。
その第一は、食料というものをストックする必要がなかったことです。もちろん今日、縄文の里にもドングリなどの貯蔵跡が見られますが、しかし廻りには四季折々の食料の種が豊富にあったので原則的にストックする手間も労働も、そのためのスペースも管理も不要だったとおもわれる。つまり縄文社会はストック社会ではなかったのです。
これは生きていく人間にとって大変大きいことではないでしょうか。そしてそれを可能にしたものが何度もいうようにカヨミだったとおもわれる。カヨミはいわば縄文という舟の羅針盤なのでした。
その結果、第二のメリットとして、食料のストックの必要がないために人々のあいだで食料の奪い合いが起きなかった。人間どうしの争いは食料などのストックの奪い合いから起きるものですが、そのストックがなければ争いなんか起きない道理です。
そして第三に食料を求めてどこかへ移動する必要もない。つまり第三者からみたら侵略とおもわれるような行為がほとんどなかったのです。
となると、これはもう理想社会といっていい。なぜなら人類の歴史は四六時中食料不足や食料不安に悩む歴史といってよく、食料が豊富であるときはいいが、ないときはそれこそ悲惨である。奪い合いが起き、他の土地への侵入が起き、戦争が発生する……。ところが、そういったことの繰りかえしがなくなる、というからです。
しかしそのような豊かな縄文の里といっても、日照りが続いたり長雨が続いたりする天候異変だってあったでしょう。そのときはどうするか?
救荒食料に頼るのです。昔から日本では「里に飢饉あり、山に飢饉なし」といわれます。そのとおり、高地の瘠せ尾根などの周辺には救荒食物がいっぱいあるのです。たとえば生育期間が短く冷涼な夏でも稔ってくれるソバ、アワ、キビ、ヒエ、シコクビエなどといったたぐいのものが日本の山にはたくさんある。さらにトチ、シイ、ナラの実、土中に育つ根菜類などはそのまま救荒食物です。つまり日本の山は「救荒食物の山」といっていいのです。
そういう日本の山ですが、縄文の瘠せ尾根の環境などもその例外ではなかったでしょう。
こうして縄文社会には争いもなければ移住もなかった、とおもわれる。それどころか考古学的調査が示すところでは、少々の自然災害があっても、竪穴住居があるところは何百年、何千年と続いているケースが珍しくない。人々は何代にもわたって同じところに住み続けたのでした(たとえば「縄文人、噴火に負けず生活再建』産経新聞平成二十七年四月七日」。
さらに第四のメリットとして、そういう食料採集なら何度もいうように力が弱い女性にだってできる。先にも述べたようにカヨミをして里の食料を採集するのなら女性にだって十分可能なのです。繰りかえしていうようにそれは知恵仕事だからである。
その結果、ここに母性社会が生まれたとおもわれるのです。さらに母性社会だけでなく母系社会も生まれていったと考えられますが、そのことをこれから検討してゆきましょう。

縄文の女は「カカア天下」

以上のように「縄文の里には食料不安がない」と申しましたが、じつはその縄文の家々に無いものがある。
それは若い男女の互いの伴侶です。
わたしは縄文の里というものは家である、と申しましたが、家でありますからそれは「血族社会」です。血族社会であるから家族成員は結束して家を守った。少人数であってもみな力を合わせて頑張ったとおもわれます。
しかし血族社会であるがために、そこにはインセスト・タブーが働きます。十九世紀にアメリカ原住民社会を詳しく調べたヘンリー・モーガンも「イロクォイ族を始めとする各部族集団内部の氏族社会つまり大家族社会にはインセスト・タブーが強力に働いている」といっている。それがなければ氏族社会は解体するからです。
すると、血族社会とみられる縄文の各家々でもインセスト・タブーが働いたでしょう。その結果、各家々の内部には若い男女の互いの伴侶が存在しなくなった。しかし、もしインセスト・タブーが働かなかったら、つまり兄弟姉妹が乱交し、父・娘が不倫などをしたら縄文社会はメチャメチャになったことでしょう。一万年どころか十年、二十年でさえ保たなかったとおもわれる。
そこで縄文の各家では、男が他の家の女性を尋ねる「妻問い」という行為が起きたとおもわれるのです。男だけがツマドイをして女がそうしないのは、里を離れた見知らぬ途中の道があまりにも危険だったからでしょう。ツマドイはもっぱら男の主導で行われたようなのです。
今日、もはやそういうことを直接に確かめる資料はありませんが、じつはこれから述べる『記』『紀』の世界にはツマドイの話がいっぱい出てきます。
わたしは『記』『紀』の神話世界の多くは農業をおこなっていなかったために縄文社会のことだ、と見ているのですが、そこで『記』『紀』のツマドイをみると、男が見ず知らずの女性をツマドウばあい、自らの素性をきちんと名乗り、また相手を褒めたたえる言葉をかけている。ときには歌をうたっている。日本の歌はこのツマドイのために起ったとさえおもわれるぐらいである。
そしてそういうことをしなかったら、女姓は容易に男を家に入れてくれないようです。『記』『紀』にはそういう話がいっぱい出てくる。
こうしてツマドイによって愛の交換が行われたのでしょうが、しかしそのばあい、長期にわたって男女が同棲することはあまりなかったようです。それは婿入りや嫁入りといった家の男女を他家にやる社会習俗がまだできていなかったからでしょう。じっさいもしそういうことを許したら弱い家は崩壊する可能性がある。各家は、家の子を保存することによって家々の競争を禁じた、といえるのです。
そこで縄文社会にあっては、男も女も生まれた家を一生離れることがなかった、とおもわれます。
となると、生まれた子供はすべて女が育てなければならない。それは大きな負担ですが、家の女たちはそれを共同で行なったことでしょう。共同でやればそれほど難しいことではない。
一方、男のほうは、自分の子供を確認することさえ難しくなる。ということは父というものが存在しなくなるのです。産まれた子供はすべて母親の子になる。その結果、家を継いでゆくのは女から女へ、母から母へということになり、ここに母系社会が生まれてゆくのです。
この縄文の母系社会が、母を家の中心とする母性社会を生みだした、とおもわれますが、その母性社会というものは考えようによっては大きいことです。というのは、父性社会では一般に父が跡取りを重視するためにそれをめぐる男どうしの競争が起き、社会は進歩するが敗者をめぐる社会問題などが生じる。一方、母性社会は、母は一般に生まれた子を平等に扱うために争いが起きにくい。しかし競争がないぶん社会はあまり進歩しないとされる。
このような痛し痒しといっていい問題はなかなか深刻です。じっさい縄文時代はその母性社会によって一万年以上も続きましたが、その間、あまり進歩は見られなかった。これにたいして現在は父性社会になって大いに進歩しましたが、逆にさまざまな問題をはらんで今や人類の未来すら危ぶまれている。
それについてはまたのちに検討しますが、ここでは一般に瘠せ尾根に居を構えた縄文社会では女性が多く家を管理しただろうことだけを述べておきます。
じっさい『記』『紀』に登場するクマソ、ハヤト、クズ、ツチグモなどといった原住民社会つまり縄文社会では、戸辺(とべ)や戸女(とめ)とよばれる女家長がしばしば活躍している。じっさい、産まれた子どもの名前はたいてい女性がつけています。「鵜葺草葺不合(うがやふくあえず)」や「本牟智和気(ほむちわけ)」などといった変わった名前もみな産んだ女性がつけたものでした。垂仁大王(おおきみ)も「子の名は必ず母の名づくる』とさえいっています(『記』)。そこにも縄文の習俗が反映されていることが伺えます。
そうすると、石器の製作や家づくり、あるいはオオカミ排撃対策などといった力仕事や危険な仕事を除いて、家のなかのたいていの管理運営は女性がやったでしょう。問題のカヨミだけでなく、食料品を採集したり、調理したり、土器や土偶を作ったり、縄や籠や衣を綯ったり、編んだり、紡いだり、また漆を採集したり、木器に塗布したり、といったことも女性が中心になってやったとおもわれる。
そういったことは、縄文の生活様式を長らく残していたとされる飛騨の秘境の白川村の生活と歴史が今に示してくれています(拙稿「白川村に見る縄文の風景」雑誌『環』所載)。
またわたしは、群馬に仕事場を持っているのでときどき群馬県の嬬恋村に仕事に参りますが、上州つまり群馬県は昔から「カカア天下と空っ風」で有名なところです。
そうなったのも、群馬は山が多く平地に恵まれないために農業活動が困難で、かわりに山に桑を植えて絹糸の生産や絹織物業を広くおこなったからでしょう。それが盛んになったのも、そういう製糸や織物といった仕事は昔から女が得意とする分野だったからです。そのうえ江戸時代には現金収入が得られた。たしかに女性にとっては魅力ある仕事であり、近世に非常に盛んになったのも無理はありません。
その結果、群馬ではしばしば女性が金銭を蓄えて一家を運営しました。「カカア天下」の由来がここにあるといっていいでしょう。
そこでわたしは縄文の家も「働き者の女を中心とするカカア天下ではなかったか」とおもうのです。
では「空っ風」とは何か?
それを次に考えましょう。

縄文の男は「空っ風」

では縄文の男は、ツマドイのほかにいったい何をしたのか? それについては『記』『紀』などに出てくる神話がヒントを与えてくれます。
それら神話によると、男たちは火をたずさえて、かつての大動物のグレート・ハンティングに代るイノシシ狩りなどの狩猟に熱中したようです。あるいは弓矢で鳥を獲ったり小動物を追ったりもしたでしょう。さらに舟を駆ってクジラやイルカなどの漁撈も行なったとおもわれる。そういうことを示す遺物がいっぱい残されています。
そのために男たちはしばしばバンド、つまり目的ごとの集団を組んだでしょう。ただしそういった狩猟・漁撈行為が、即生産に結びついたかどうかはわからない。というのも、道もろくにない時代に獲得した食料を家まで持って帰るのは至難の業だったろうとおもわれるからです。もちろん少しは持って帰ったでしょうが全部かどうかはわからない。また女性のほうも、気まぐれな男の食料などを当てにしていたら子供は飢え死にするかもしれません。
むしろ男たちは勇壮な狩りに熱中して心を躍らせたとおもわれる。一方、女性は、海に出るような危険な行為をほとんど行わなかったことでしょう。
といったように、女は家を維持するため大いなる働き者だったが、男はどちらかといえば狩猟・漁撈のようないわばスポーツ、悪くいえばギャンブルに熱中したとおもわれる。どちらかといえば風来坊に近かったではないか。
じっさいそういう伝統を受けついだためか、ここで唐突に日本の漁村のことを持ちだしますが、日本の漁師たちは一般に、命を賭けた漁が終わったあとは酒を飲むことのほかには何もしないことが多い。獲った魚はたいてい女たちが売りさばきます。金勘定も女性が行ないます。日本の漁村はおおかた女性が運営する村なのです。つまり、縄文の伝統が日本の漁村に受け継がれたようにおもわれるのです。
さらに、いま「男は酒を飲む」といいましたが、酒だけは古くから日本で作られたようです。後漢のころ、西暦でいうと紀元一世紀末の『論衡』という本に、「周の時……倭人鬯艸(ちょうそう)を献ず」という一節があるからです。周の時代というといまから三千年ほど前のことで、日本ではまだ縄文時代ですが、そのとき倭人が周の王朝に、鬯艸つまり黒黍を醸した酒を献上したというのです。すると「酒と女と博打」は、万古変わらぬ日本の男の習性だったかもしれません。
たしかに上州というところは、日本海の湿った空気が三国山脈を越えるとき大量の雪を落してしまって、そのあとには空っ風が吹く風土です。
しかしそういう風土なら美濃や岩代など、日本にはほかにもたくさんある。何も上州だけではない。
そこでおもうのですが、じつはここ上州では、男たちが空っ風になったのではないか?
いまのべたように江戸時代の上州の女たちは働き者だったから、お蚕だけでなく家事の大方もやってしまったでしょう。すると男たちはすることがない。そこで立場を失った男たちは風来坊になって、たとえば博打などに熱中したのではないか、とおもうのです。
その結果、ここに縄文社会のような「母性社会」が現出した、とおもわれる。
そして女が強くなった。一節太郎の「浪曲子守唄」ではないが、

“逃げた女房にゃ未練はないが、お乳欲しがるこの子がかわい。
子守唄など苦手な俺だが、馬鹿な男の浪花節、
一つ聞かせようか、ねんころり。”

女が強いのか哀れな男の話ですが、じつは上州は、日光参詣の道筋に当っていたため賭博場が多く開かれました。旅人の往来が激しく、なかに小金を持っていた人たちが賭博に熱中したからです。そういう賭博場の縄張り争いから、大前田英五郎や国定忠治などといった侠客が現われたりもしました。
そこで群馬でそういう話を聞くたびに、わたしは「縄文時代はこの上州のようなものではなかったか?」といつもおもいます。つまり、縄文人の狩猟行為は「上州人の賭博に近いものではなかったか?」と。
その結果「カカア天下と空っ風は上州だけでなく、じつは縄文時代もそうだったのではないか?」とおもうようになりました。
というと「いかにも縄文の男はだらしがない」とおもわれるかもしれませんが、たしかに縄文の女たちはいま見てきたように甲斐性持ちで大いに頑張ったことでしょうが、ところが男もまた相当のものだった。そのことは『記』『紀』の記述にも示されているようにわたしにはおもわれます。
たとえば高天原におけるスサノヲの活躍を一つとってみてもそうですが、後になって縄文の男たちが山を下りて平地で農業を始めとき、廻りの人たちからしばしば「チハヤブル神々」として恐れられたことを見てもわかります。
これは余談の話ですが、わたしの知っている群馬の友人の男たちは、男どうしならそれこそ血の雨が降るほどに喧嘩早いのですが、女房の前に出ると、皆それぞれ借りてきた猫のように大人しくなるのです。

カカアは「元祖アマテラス」だった

とすると、そのような頼もしい「縄文のカカア」は、その後の歴史においてどうなったのでしょう?
じつはそのことが本書の大きなテーマですが、したがってそれについてはおいおい述べるとして、ここで一つ新たな問題提起をいたします。
それは勾玉といわれるものです。
天皇家の祖先とされる瓊瓊杵(ににぎ)尊が高天原から地上へ「天孫降臨」したとき、祖母のアマテラスがニニギに三つの神宝を授けました。それは八坂瓊の勾玉、八咫鏡、草薙剣です。うち鏡や剣は用途がはっきりしていますが、勾玉だけは装飾とされる以外に用途があるようにおもわれません。ところが、それはいつも三種の神器の最初に置かれる大切なものでした。
たとえばのちに詳しく述べますが、垂仁大王のとき倭姫はアマテラスの御魂を捧げ、そのうえ宮中にあったヤタノカガミとクサナギノツルギを持ちだして伊勢にゆきました。しかしヤサカニノマガタマだけは宮中に留め置かれました。アマテラスはともかく、マガタマは宮中が必要としたからでしょう。わたしはそれを日読みのためではなかったか、とかんがえています。
遡ってアマテラスがスサノヲの乱暴を憤って天の岩屋に隠れ、人々はアマテラスを岩屋から連れ戻そうとしてさまざまな呪具を榊の木に掛けたときも、下から白丹寸手(しろにきて)・青丹寸手、八尺鏡(やたのかがみ)でしたが、最上層に置かれたのは八尺の勾璁(まがたま)でした。そこから、アマテラスもまた日読みをする巫女だったことが想像されます。
さらに遡って、アマテラスが天の安の河原でスサノヲと誓約(うけひ)したとき『記』によればスサノヲはアマテラスの左の髪につけていた多くの勾玉をつらぬく玉の緒をとって、天之忍穂耳(あめのおしほみみ)命以下の神々を出現させています。
『紀』においては諸説がありますが、その一つにアマテラスは、スサノヲが羽明(はかる)玉という神からもらったマガタマから市杵嶋(いちきしま)姫を始めとする三女神を生んでいます。ハカルタマのハカルは物を量る意とされます(『日本書紀上』岩波書店)。タマには量る意があるようにおもわれます。
さらにそういう勾玉にかんする古い記述としては、アマテラスが生まれたとき喜んだ父の伊邪那岐(いざなき)命がアマテラスに授けた御倉板挙之神(みくらたなのかみ)、すなわちいつも倉の棚の上に安置される神さまとされる首飾りがあります。そうしてアマテラスはイザナキから「高天原を治めなさい」といわれる。
といったことから勾玉の首飾りは、日本の巫女には欠かせないものだったことがわかります。ためにアマテラスもいつも勾玉の首飾りを首にかけていたのでした。
じつはここから先はわたしの推測ですが、その勾玉の首飾りにはもちろん装飾や魂の宿る場といった呪術性があった、とおもわれますが、もとは縄文の女が日読みをするとき「日数を数えるのに必要な計算器ではなかったか」とわたしは考えています。いろいろの材質、形、大きさの勾玉や管玉などに穴を開け、緒つまり紐を通して輪にし、そこにもう一つペンダント状の珠をそれら玉と玉の間に緒で結びつけ、毎朝、日読みのときその珠を移動させれば確実に日数計算ができるからです。またそれぞれの玉に意味をもたせれば、その玉のところにペンダントの珠がきたときお目当ての時節の到来を知ることができる。
『記』に高比売(たかひめ)命が兄の阿遅志貴高日子根(あじしきたかひこね)神を人々に紹介するとき、

“天(あめ)なるや弟棚機(たなばた)の頂(うな)がせる
玉の御統(みするま)御統に
穴玉はやみ谷二渡らす
阿治志貴高日子根神ぞ”

と歌っています。それは「天上の世界で若い機織女が首にかけている首飾りの玉の間を二つも飛びこす穴玉のアジシキタカヒコネの神です」という意味です。つまり雷神であるアジシキタカヒコネは、二日間にもわたって吹きすさぶ凄さをもった神であることをいいあらわしたものである。
そのようにかんがえると、呪力をふるう巫女がたいてい首飾りをしていたことがわかります。首飾りはカヨミをする巫女の必需品だった。とりわけアマテラスにとっては、それはシンボルの意味があったでしょう。
今日、三種の神器のうち、クサナギノツルギは古墳時代の、ヤタノカガミの鏡は弥生時代の器物を象徴すると見られますが、それにたいしてヤサカニノマガタマは縄文時代のものと見ることができます。というのも、それらは縄文遺跡からたくさん出土するからです。
というところから縄文のトメたち一般も、ヤサカニノマガタマを用いていた可能性が十分にある。
とすると「アマテラスの元祖に縄文の女主人たちがあった」と見ることができる。
すると、今日、太陽を遥拝する天皇の行為も、それは「アマテラスの子孫であることを意味するとどうじに、縄文のトメたちの日読みの伝統を引き継ぐものである」といっていいとおもわれます。
〈以下、略〉