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「4つの戦争」を生きてきた私


 

私は本日、92歳になりました。そこで考えてみると、それまでの91年間に私は「4つの戦争」を経験してきた。

◆ 第1の戦争は今から80年ほど前の「大東亜戦争」です。私は昭和20年(1945年)6月に中国の青島にあった青島日本中学2年生になったのですが、そのとき勤労奉仕のための「日本海軍」に行ったところ募集があり、それは「モーターボートに火薬を積んで青島湾の湾内に入ってきたアメリカ軍艦にぶっつかる」というものでした。結果、クラスの50人中、約15人が志願し、わたしは仲間と一緒に「日本帝国海軍第三艦隊青島方面根拠地隊少年特攻隊」なるものに「入隊」しました。「親と相談してこい」といわれましたが父母とは遠く離れていて相談できず、単独で志願しました。そうして一か月ほど海軍で軍事訓練を受けたが敗戦となり「隊」は解散しました。のちに知ったことですが同様のものは沖縄にもあり、その多くでは少年たちがアメリカ軍に突っ込んで死んだそうです。アメリカは沖縄の次に青島を狙っていたので、敗戦があと一か月長引いていたら私も死んでいたことでしょう。

 

◆ 戦後、私たち一家は中国から引き上げましたが、しかし日本の国土があまりにも中国と違っていたのに私はショックを受けました。というのも日本の町々には様々なものがあふれかえっていますが、中国ではほとんどそういう風景を見かけない。一口にいうと、中国大陸の大部分は荒野でした。言いかえると「何もない海」でした。しかしよく見ると、そういう「海の中」に人が住んでいました。荒野にある「打ち続く高粱畑」がそれでした。そういう「海」のなかに大部分の中国人が住んでいました。彼らの貧しい家々は高粱と泥の屋根に覆われ、傍に寄るまでそこが家だとはわかりませんでした。つまり「大地」というものは多く荒野ですが、その荒野の中に高粱の野畑があり、その一部に人々が住んでいて、それらはみな「高粱の野畑」あるいは大地そのものと変わりなく、近くに行って見て初めて人間が住んでいるのがわかるものでした。だからそれらの家々も荒野とほとんど変わりませんでした。そうして私は毎日、真っ赤な太陽がその高粱野畑の海の中に沈んでいくのを眺めながら暮らしていました。その情景は子供の目にも圧倒的なものでした。日本の軍歌にも歌われた「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下」の太陽です。私は真っ赤の太陽が大地に落ちていくのを毎日々々眺めて暮らしていました。また、私の住んでいた南の方の荒野では同じく軍歌に「どこまで続くぬかるみぞ、三日二夜の食もなく雨降りしずく鉄兜」と歌われたようにまったくの泥の世界でした。一方、お金のある5%か10%の中国人は、その荒野の海の中の「島」といってもいいようなところに住んでいました。中国語では「城市」といい、その字の通り厳重な城壁に囲まれた「城壁都市」でした。四つの門には「何種類もの警官」が銃を持って立っていました。「何種類もの警官」というのは、その「城市」のなかに「何種類もの中国人」がいたからです。つまり国民党系、その分派系、親共産党系、そしていくつかの地元豪族系です。ですから彼らの使っているお金の発行元銀行もみな違っていました。それらの交換レートも日々変わっていました。つまりそこには出自、国家の違う中国人たちが混住していたのです。しかしそういう「城市」のなかの家々は何重にも重なり合って全体としてものすごい中高層建築群でした。五万や十万の人が住んでいたでしょう。そこに私はたいてい一人で遊びに行っていました。日本の子供だと分かっても危害も加えられませんでした。いわばそれは「荒野という島」といってよく、一歩、門の外に出るとそこは家一軒も広告一つもない、また電柱一本もないまったくの荒野でした。6、7メートルほども高さの城壁の外はそのような「荒野の海」が広がっているのでした。それはおそらく何千年も変わらない風景だったでしょう。そういう中国の「城市」や「荒野」を見慣れていた私には、日本の城壁も荒野もない都市や国土というものが全く理解できませんでした。日本に帰って私はしばらくの間、私鉄電車の駅のベンチにすわり、ひねもす電車や乗降客や踏切や自転車の往来などを眺めていました。どこまでも際限なく広がる平べったい日本の町は私にとって不思議な光景でした。しかし日本の町はともかく、中国でのそういう町の光景は今も変わらない。今は城壁の代わりに高速道路ができ、鉄道が敷かれ、各所に駅などもたくさんありますが、しかし、その駅の内側は高層建築が続く街であっても外側は今も「荒野」なのです。ごたごたした町など一切なく、せいぜい大規模マンション群か、発電所群か、工場群があるだけで、あとは荒野が拡がっているからです。そのマンション群や発電所群などを「高粱畑だ」と思えば、新旧の中国大陸の風景は今も昔も変わらない。変わったのはある日、突然、それらの荒野がすべてを国有地とされ政府が持ち、人民に高価な値段で貸し付けていることです。中国政府はそれら「荒野」をすべて収奪し「世界一の大金持ち」になったのです。そうしてその金で、今日、地球も宇宙もすべて中国政府が制覇しよう、というような時代になったのです。

 

◆ つぎに第2の戦争は「反安保戦争」つまり「反安保闘争」です。じつは私はかねがね父から「大阪の会社の丁稚になれ」といわれていましたが、母は「今時、大学に行くのは当たり前」といったので京大に入りました。そしてその当時、日本共産党だけが日本の「平和憲法」に反対し、ために私は高校の時から限りなく日本共産党を尊敬していました。京大の建築学科に入るとすぐ朝鮮戦争が起きたのですが、ために私は躊躇なく共産党の指導するままに「日米安全保障条約反対」のデモに参加し、いわれるがままに「山村工作隊員」など軍事訓練を受け、いわれるがままに火炎瓶なども作りました。お蔭で大学では何も勉強できず、就職試験を受けても、「梁と柱の区別」さえできないためどこも採ってくれず、そこでまた母の勧めで大学院に入りました。がしかし、そのゼミがあまりに面白くなかったのでゼミの共産党の先生に頼んで建築の仕事を採ってきてもらい、その先生に「謝礼」を払い、ゼネコンの現場担当者を雇って自分たちだけで建築設計を始めてやっと建築が分かるようになりました。当時、共産党では、先生より学生の方が偉かったのでした。そうしてその大学院の二年間で私はどこへ出ても恥ずかしくないいっぱしの図面が描けるようになり、その作品は建築雑誌にも載りました。そうして国家公務員試験を受けたら大学院1年の時は3番、2年の時は10番でした。1年修了の時は先輩に頼まれて「16番の先輩」に譲って建設省を辞退しましたが、2年修了の時には建設省に入りました。そうして住宅局で公営住宅の建設や「新住宅市街地開発法」の立案などを担当し、千里、泉北、多摩などのニュータウンの建設に従事しました。一方「安保反対運動」が極限に達したときに国会前に行きました。樺美智子さんが死ぬのを助けられませんでした。がしかし、その群衆の哀れさ、情けなさを見ていて私の「安保反対闘争」は終わりました。

 

◆ 第3の戦争は「高度経済成長戦争ないしバブル戦争」です。高度経済成長やバブル華やかなりし頃、私は各地で多くの建物を設計しました。有名なものは「70年大阪万博のお祭り広場」です。今も京都に残るものに「洛西ニュータウン」や「京都精華大学キャンパス」などがあります。その大阪万博にはいろいろの思い入れがありますが、それらは今まで多く論じてきたので割愛します。

 

◆ そして第4の戦争は今日につながる「コロナ戦争」です。これにはいろいろ問題があります。

さて話は戻りますが今から75年前、中国大陸から引き揚げてきた私は大阪の高津中学に入り、早々「日本人はバカである」というテーマで校内弁論大会に出場しました。がしかし、私が登壇すると会場を埋め尽くした60人ほどの上級生から一斉に「上田篤というバカはお前か?」「バカな上田篤は早く死ね!」などという怒声が飛び、私が黙るとヤジは止んだがしゃべり出すとまた始まり、ために既定の15分間、私は何もしゃべることができず降壇し、私の口は封ぜられましたが私は内心嬉しかった。「馬鹿でもない日本人もいるもんだ」と。

そもそも私がそんな題で登壇したのも、かねてから「大人のアメリカに対し子供のような日本がなぜ戦争したか?」という疑問があったからです。がしかし、いざ戦争に負けると誰もそんな疑問を持ち出さなくなった。それが私にはとても不満だった。だが、のちそういう疑問に答えてくれた人がいた。私が建設省に職を得、東京に赴任し、日本の政治家の経歴をいろいろ調べ、かつての近衛内閣の書記官長で当時、社会党衆議院議員だった風見章なる人物に思い至り、彼に電話をし、趣旨を述べると気さくに逢ってくれたからです。それから私は、当時、弟分で、のち映画監督になった大島渚を連れて風見の事務所に日参しました。そして彼から戦前、戦中の御前会議のいろいろな話を聞いてやっと積年の疑問が解けたのでした。

 

◆ それはこういうことです。昭和16年(1941年)6月にドイツ軍がソ連に侵入すると、ドイツ軍は破竹の勢いで進んで、モスクワ陥落は目前に迫りました。リーダーのヒットラーは「クリスマスにはモスクワを水浸しにして水上パーティーをやる」とまで宣言しました。すると今まで「日米戦に勝利なし」と見ていた日本の陸海軍首脳が「モスクワが落ちればドイツは次にイギリスに向かい、アメリカはイギリス救援のためヨーロッパに向かう。すると太平洋はガラ空きになり日本は戦わずして勝つ」と言い出し、御前会議で天皇の裁可を得て日米戦が始まった、というのです。ところがその情報が日本の官邸記者からソ連のスパイに漏れ、スターリンの知るところとなり、「スターリンは北の日本関東軍は南に向かう」と早々とシベリア軍団を引き上げてモスクワ防衛戦に投入した。ためにヒットラーはビックリして矛先をウクライナに変え、さらに日本がアメリカと戦争するとなると「日独防共協定」の関係でドイツはアメリカとも戦争することにもなり、結果、ドイツは東西に敵を受けて負けました。すると日本も負けた。つまり日本の戦争はすべて「ドイツ頼み」だったのです。そうなったのも、すべて日本人の国際関係の無知と諜報力の甘さからきたことでした。

しかし、今日のロシアでは67年前の対独戦の勝利者のスターリンの名前は一言もでてこない。プーチンなどはまだ生まれてもいなかった。すべてはスターリンの勝利だったにもかかわらず、スターリンの名前は一切ない。モスクワ攻防戦、続くレニングラード攻防戦、スターリングラード攻防戦などはみな人類の歴史に残る戦争悲劇とされ、なかでもモスクワ攻防戦は世界最悪の戦争といわれてロシア軍の死者は100万、200万ともいわれています。というのも、ロシアは逃げてくる味方の兵隊を、督戦隊といわれた同じロシア兵がぶち殺す作戦を採ったからです。戦後、それがいろいろ問題になった。がしかし長い間うやむやにされていた。ところがスターリン死後、フルシチョフが秘密報告でそれを暴露しスターリンの栄光は一挙に地に落ちた。フルシチョフはそのときスターリンの派遣将校として作戦を指揮していたから嘘ではなかったのです。そしてフルシチョフの秘密報告以後、スターリンの名はロシアの歴史から消え去った。今もプーチンはスターリンについて一言も語らない。対独戦の勝利にもスターリンの名前は一切出てこない。がしかし、対独戦の勝利者はそのプロセスがどうであれスターリン以外にありえない。その督戦隊は風見の話から推量するとどうやらシベリア兵だったようです。日本がアメリカと戦争することが決まったことを風見の友人だった朝日新聞記者の尾崎秀実を通じてソ連のスパイのリヒヤルト・ゾルゲが知り、スターリンに知らされ、結果、急遽スターリンは、日本関東軍は動かずと見てシベリア兵をモスクワに連れてきて逃げてくるヨーロッパのロシア兵を背後からぶち殺したのです。同じロシア兵でも出身が違っていたから可能だった。ためにドイツと闘っていたヨーロッパのロシア兵は「どうせ殺されるなら」と死に物狂いで多くがドイツ軍に立ち向かった。結果、戦争の風向きが変わって、ドイツ軍はモスクワ攻略を諦め、ウクライナに向かった。それがナチスドイツの終わりの始まりとなった、というのです。

つづく「第2の戦争」です。そうして日本が戦争に負けると昭和20年(1945年)9月、ダグラス・マッカーサーを長とするアメリカ占領軍がやってきた。それは日本人が恐れていた多くの国の占領軍による「共同統治」や「直接統治」ではなく、アメリカ軍による「一国統治」かつ「間接統治」だったが、日本にとってよかったものの、後に述べるソ連などは猛反対した。その占領軍に対した日本人は当時68歳だった元外交官の吉田茂である。彼は「白足袋総理」「葉巻首相」などと称ばれる異才人だったが、長年の経験から「日本が講和条約を結んで独立さえすれば何でもできる」と判断、アメリカの要求する「武力放棄の平和憲法」や、朝鮮戦争が始まると「警察予備隊をつくる」などの無理難題をみな飲み、その上で「3つの闘い」を闘った。

 その第1の闘いは講和条約を巡るものである。当時、日本社会は全面講和か多数講和か、で揉めていた。講和条約を戦争した国の全部と結ぶか「片面」とか「単独」とかいわれた多数の国と結ぶかだが、それだけなら全面講和がいいに決っている。がよくよく考えると、全面講和とはソ連が要求する「ソ連を入れろ」という話だった。だが日本はソ連と戦争した覚えは全くない。それどころかソ連とは「相互不可侵条約」まで結んでいたのに、日本の敗戦を知ったソ連が一方的に攻めてきて多くの日本人を捕まえてシべリアで強制労働させ、挙句の果て日本領の南樺太と千島列島とを強奪した。つまり全面講和とは聞こえはいいが「戦勝国にそのソ連を入れろ」という話だったのである。

 しかし昭和24年(1949年)秋のこと、突如、南原繁東大総長を始めとする有名な日本の学者達が「ソ連とも講和を結ぶ全面講和を!」と言い出した。当時の日本の学者達には「社会主義ソ連」がよほど魅力的だったらしい。だがそれを知った「舞鶴で帰らぬ子達を待つ日本の母親たち」はびっくりした。途方に暮れた。そのとき吉田首相は彼らを「曲学阿世の徒」と呼んで一刀のもとに切り捨てたのである。「学を曲げ世に阿る輩」という物凄い発言だが、そうして吉田はソ連を除く「片面講和」つまり多数講和を進めた。多くの日本人はほっとしたのであった。

しかし、それは学者達だけではなかった。国会でも多数の野党議員が「片面講和」に反対し、全面講和を主張した。ために吉田は信を世に問うべくしばしば国会を解散した。吉田がまさか国会を解散するとはおもわず、野党は解散が決まったとき国会で「へなへな水平万歳なるもの」をした。吉田を解散に追い込んだのはいいが次の選挙で勝てる自信がなかったから万歳の手が上にあがらなかったのだ。その模様がテレビに映しだされ、吉田を追求した多くの議員達は落選した。その有名なものが、吉田が国会で野党の発言者に対し「バカヤロー」といった「バカヤロー解散」である。結果、吉田は再選し吉田政治は進んだ。吉田が偉かったというより日本国民が偉かった!というべきだろう。

 

◆ またことは日本の学者や国会議員だけではなかった。第3の「全面講和論者」に何とアメリカ占領軍があったのだ!今日、そういう記録がないので以下は前後の状況からする私の推測だが、まず在日アメリカ占領軍最高司令官マッカーサーは「ソ連を除く多数講和派」だった。しかし旗下の総司令部(GHQ)のインテリ士官の多くは、民主党員かつ「社会主義者」であったルーズベルト大統領の秘蔵っ子達で、「全面講和」どころか「日本無期限占領」まで主張する「左翼」だった。ために吉田はマッカーサーと親交を重ねたものの仕方なくマッカーサーにも内緒で部下の池田勇人を「私用」で派米、ルーズベルトの後任の民主党大統領のトルーマンに「直訴」させた。話を聞いたトルーマンは「民主党に人なし!」と判断し、結果、日本の講和問題担当顧問に、何と民主党の対立政党だった共和党のジョン・フォスター・ダレスなる人物を派遣した。その人事を知った在日アメリカ占領軍は絶句した。そういうなかで「片面講和」と非難された多数講和が粛々と進められてサンフランシスコ講和条約が成立した。敵を欺くためには味方も欺き「ソ連抜きの多数講和」を進めた吉田の「離れ業」である。

 

◆ そのサンフランシスコ講和条約締結のとき、勝者とされた東南アジアの多くの国々が思いもかけず次々に日本への「賠償請求権」を放棄した。それを壇場で見ていた吉田は泣いた、という。そうして占領軍は去り日本はようやく独立国になった。そのご吉田も政権を下り日本は高度経済成長時の道に入ったが、それらすべては吉田の政治学、腹芸、執念のお陰だった。私は学生時代にそういうことを知らされず、一途に「片面講和反対、全面講和賛成」を叫ぶ左翼活動をしていたが、お恥ずかしい限りである。

 

 さてつづく「第3の戦争」は「高度経済成長戦争ないしバブル戦争」である。じつはこのように昔の学生時代を振り返ると内心忸怩たる私だが、社会人になって少し変わった。極めつけは京大の助教授時代に関わった「70年大阪万博」である。私はその大阪万博で「お祭り広場を作ること」、「設計者を西山卯三と丹下健三にすること」、「お祭り広場の地上部分を私が設計すること」などを主張して実現させた。そういう結果に私は今も満足している。縄文時代以来、日本文化の原点は祭に、具体的には「お旅所」といわれたところでの各種の祭事に、もっと具体的にいうとお旅所での人々の飲食・歌踊などの「神人協和」にある、とおもっていたからだ。「大阪万博のお祭り広場」はその典型なのである。

 

 最後に「第4の戦争」だが、じつはその「大阪万博」にも悔いが残る。というのも私は大阪万博の「人類の進歩と調和」というテーマに従い「コンピュータ・センター」なるものを提案しIBMなどとも話し合ったがついにその具体的形を見出せなかったからだ。カシオの計算機や任天堂のゲーム機を知っていたが、今日の科学技術の発展を担う「半導体」に思い至らずその時代の到来を見越せなかった。ビル・ゲイツを知ってもスティーブ・ジョブズを理解できなかった。ために今も千里に残る「太陽の塔」を見る度に「あのとき半導体やスマホを作っていたら」という思いを隠せないでいる。そして今日、半導体から未来を論じる遠藤誉の『中国製造2025の衝撃』などを紐解いては日々驚いている。そこには恐ろしい「コンピュータ戦争」のことまで描かれ、「半導体時代を見通せなかった私はバカだった」と思う今日この頃である。

しかし、じつは今日、その恐れる事態がやってきた。

 

 ここで改めて歴史を溯る。吉田茂いご、日本とソ連、そして世界は目まぐるしく変わった。日本では安保締結、所得倍増、高度経済成長、オイルショック、バブル経済、リーマンショック、福島原発事故、アベノミクスそしてコロナウイルス蔓延などが起き、ソ連では日ソ共同宣言で一時「歯舞、色丹を返す」といったのを始め、スターリン批判、米ソのキューバ戦争、六三年のフルシチョフの対日友好メッセージ、ゴルバチョフのソ連邦解体、エリツインの新生ロシアなどがあった。そういうなかで本年2月、突如、ソ連のウクライナ侵攻が始まった。そして世は「プーチンのウクライナ戦争」の真っただ中にあり、一つ間違えば「世界原爆戦争」に発展しかねない今日この頃である。そういうとき私のいいたいことは七五年前に日本に攻めてきたスターリンも今ウクライナ侵攻を進めるプーチンもその行動様式は何も変わっていない、ということだ。プーチンの「ウクライナ侵攻」を見るたびに「いろいろのことがあったがロシアはちっとも変わっていない」とおもう。そして敗戦日本で「ソ連抜き講和」を実現した吉田茂を改めて思いだす今日この頃である。というのもプーチンのウクライナ戦争が成功すればその次のウクライナは「日本の北海道になるだろう」からだ。実際、ロシア人の多くは北海道をソ連のものだ、と思っている。商用などで日本に来たロシア人は用が終わるとみな北海道で遊んで帰るのがそれである。実際、北海道はオホーツク海に面しているだけでなく、その海岸線を見る限り日本海も半分はロシアだ。

いま日本ないし世界で「コロナ禍」がいろいろ問題になっているが、それは同時進行している「プーチン戦争」と関連している。コロナ禍もプーチン禍も、ときおり世界を席巻する「人間の業」とでもいうべき忌まわしき社会現象だからである。

 

◆ 以上、いろいろなことがあったなかで今一人の日本人としてしみじみ思うことは「大地に根づかない新来思想に振り回される多くのインテリ日本人は馬鹿で、日本の大地に根差し、昔からの生活を手堅く生きる多くの日本庶民は偉い」ということだ。一言でいうなら、それは昔からある「村の寄り合いというものの凄さ」である。遠藤周作の小説「沈黙」を読めばわかる。クリスチャンの村人も、「村人の寄り合いの決定」に従ってみなキリスト像を踏んだのだ。つまり日本人は昔からこの複雑な風土の中で「三人寄れば文殊の知恵」なる「ムラの寄合い」で生きてきたのだが、であるから、その「ムラの寄合い」がムラの憲法である。それが「お祭り広場」である。私は「お祭り広場」について多くを論じてきたが、皆さんにも「そういう日本文化のことをぜひ知ってほしい」と願う次第である。

言いたいことは以上である。有難うございました。

2022年08月12日 上田 篤